《奥の細道》《六月三日、羽黒山に登る。図司左吉(俳号呂丸)と云者を尋て、別当代
会覚阿闍梨に謁す。南谷の別院に舎(やど)して、憐愍の情こまやかにあるじせらる。
四日、本坊に をゐて俳諧興行。
《有難や雪をかほらす南谷》
五日、権現に詣。当山開闢能除大師は、いづれの代の人と云事を知らず。延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや。出羽といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記(★註1)に侍とやらん。月山、湯殿を合て三山とす。当寺武江(武蔵国江戸)東叡(寛永寺)に属して、天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄長にして、めで度御山と謂つべし。》★註1 出羽国風土記は存在しない。芭蕉の文学的創作文章らしい
『曾良随行日記』『羽黒手向荒町。申ノ刻、近藤左吉ノ宅ニ着。本坊ヨリ帰リテ会ス。本坊若王寺別当執行代和交院へ、大石田平右衛門 より状レ添。露丸子へ渡。本坊へ持参、再帰テ、南谷へ同道。祓川ノ辺 よりクラク成。本坊ノ院居所也。
○四日 天気吉。昼時、本坊へ蕎麦切ニテ
被レ招、会覚ニ謁ス。并南部殿御代参ノ僧浄教院・江州円入ニ会ス。俳、表計(おもてばかり)ニテ帰ル。三日ノ夜、稀有観修坊釣雪(★註2)逢、互ニ泣第(涕泣)ス。
○五日 朝ノ間、小雨ス。昼ヨリ晴ル。昼迄断食シテ註連(しめ)カク(掛く)。夕飯過テ、先、羽黒ノ神前ニ詣。帰、俳、一折ニミチヌ。』★註2 名古屋の俳人大橋ちょうせつ。芭蕉の俳友。偶然、羽黒山に滞在中だった。ここでも世間は狭いことを実感
〇羽黒山でボクの探訪目的は二つあった。一つは山頂の「出羽三山神社」。もう一つは石段登りの途中から右手の谷に入っていく「南谷」。この南谷にあった別院に、芭蕉と曾良は六泊している。六月三日~五日と七日~九日。中間の六日は、月山山頂付近の小屋で泊っているから驚く。南谷に入るためにボクは表参道を登った。石段道で2446段ある。一の坂から三の坂まであり、各坂の段数はほぼ等しい。二の坂の半ばに力餅三の坂茶屋があり、ボクは息が切れて(貧血症)力尽きたのでそこで休憩した。訊くと、南谷は三の坂に入って直ぐだそう。
〇2010-5-5表参道(石段)登頂
↓鶴岡市から羽黒山を目指すと大鳥居が待つ
↓随身門。廃仏毀釈前は「仁王門」であり、二体の仁王が護っていた
↓随身門を潜ると下りの石段が待つ
↓祓川
↓〇〇滝
↓爺杉
〇国宝・五重塔
↓二の坂にやっと着いた
↓二の坂と三の坂の中間に〇〇茶屋があって一服した。一息入れて見た新緑の美しかったこと
↓芭蕉塚があった
↓いよいよ三の坂
↓羽黒山斎館旧華蔵院
↓表参道鳥居が見えてきた。いよいよ出羽三山神社本殿境内に入る
↓「羽黒山」
〇「蜂子社」。変な名だが、最重要の摂社
↓祭祀所跡
↓出羽三山神社本殿
〇芭蕉銅像
↓出羽三山句碑
↓天宥社
↓摂末社
↓羽黒山東照宮
↓東照宮摂末社
↓裏参道(車登山道)の鳥居
〇鐘楼。神社に鐘楼は本来変。修験道神社寺院の名残
〇出羽三山神社拝殿本殿
本殿前の鏡池
↓三神合斎殿
↓拝殿・本殿を側面から見る
↓鏡池に写った拝殿本殿
本殿側面
↓本殿背後から斎館に繋がっている
↓再た表参道石段を下る
↓芭蕉が滞在した南谷へ行く道
↓途中の名物力餅二の坂茶屋
↓随身門の外に出ると、立派な神社を護持する宿坊・神林勝金がある
〇羽黒山を望む
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