2019年11月14日木曜日

★奥の細道紀行 第172章 「月山」登頂

奥の細道》《八日(★註)、月山にのぼる。木綿(ゆふ)しめ(注連)身に引きかけ、宝冠に頭を包み、強力と云ふものに導かれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏んでのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入るかとあやしまれ、息絶え、身こゞえて頂上に臻(いた)れば、日没して月顕わる。笹を舗(し)き、篠(しの)を枕として、臥して明くるを待つ。日出でて雲消ゆれば、湯殿に下る。》
曾良随行日記』『○六日 天気吉。登山。三リ(里)、強清水。二リ、平清水。二リ、高清。是迄馬足叶(かなう) 。道人家、小ヤガケ也。弥陀原(中食ス。是よりフダラ、ニゴリ沢・御浜ナドヽ云(いう)ヘカケル也。難所成。こや有)御田有。行者戻リ、こや有。申ノ上尅(さるのじょうこく、3時半頃)、月山ニ至。 先、御室ヲ拝シテ、角兵衛小ヤニ至ル。雲晴テ来光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。
★註 月山に登った日を、芭蕉は8日としているが、曾良が記した6日が正しい
〇芭蕉と曾良は、南谷にあった別院に6泊している。6月3日~5日と7日~9日。中間の6月6日は、月山山頂の小屋で泊り、翌日湯殿山を往復して月山から下山しているから驚く。
〇月山の頂上に立つのは、ボクの健康状態ではまず無理。八合目まで車で登れるドライブコースを行ってそれで満足するつもり。気象が許せば登れる所まで登ってみるつもりもあった。湯殿山へは国道から入り込むルートがあるから、その道を行けるだけ行ってみよう、湯殿山神社まで行けるはず。ところが、羽黒山神社社務所の向かいにある「いでは歴史資料館」に入り受付の親切なおねえさんと話しているうちに、月山・湯殿山に登るドライブルートは積雪のため6月にならないと開通しないと注意された(会話は5月初めのGWになされた)。
芭蕉は月山・湯殿山の山頂に立った。それをボクの健康状態が許さない。ボクの奥の細道紀行は、芭蕉の辿った通りに忠実に完遂できないだろう。この点、致し方ないが残念。
2016-7-18(月・海の日)
〇鶴岡市郊外・道の駅「三川(みかわ)」で06:45目覚め。07:30月山に向けてセレナ始動。08:30月山・八合目に到着。気象最悪


 〇平地と違って霧が濃く・風雨もある。月山八合目は地上から見れば完全に雨雲の中にあって見えない状態だろう。ボクは風雨に晒される月山登頂を念頭に措いてなかったので、雨合羽の用意しかなかった。登山者は例外なく本式の風雨対策用の装備をしている。ボクはあっさりと8合目から踏み出すことを放棄した。


 ↓数十メートル先を登って行く登山者の一群がすぐに雨と霧の中に呑み込まれかき消されていく。
〇登頂を目指すことを断念したボクの足元に野鳥が現れた。これは「文鳥?」か。ボクのことを恐れようとしない。見つめているともう一羽現れた。そちらは頬が赤くない、黒。地味だから雌か。多分つがい。ボクの失意を慰労するために月山の神が遣わしてくれた可愛い使者かも、と思いながら下山した。


〇芭蕉と曾良は月山に登頂し、その日は頂上の茅葺掘立小屋(現代の山小屋)で夜を明かし、翌日尾根を縦走して湯殿山頂に至り、湯殿山で御神体を拝んで月山に戻り、下山した。そして有名な出羽三山の句を残す。
 『涼しさやほの三日月の羽黒山
 『雲の峰いくつ崩れて月の山
 『語られぬ湯殿に濡らす袂かな
芭蕉と曾良は白の死に装束を身にまとって月山に向ったに違いない。月山の頂上で死を体験し、湯殿山の湯を噴き出す御神体に触れて蘇りを体験する、これが出羽三山修験道の神髄。ところで芭蕉は徒歩で麓から山頂までをきわめたのではない。麓からは馬に乗って出発した。何合目まで馬を利用したかだが、案外八合目あたりまで馬で登ったような気がする。今は車道が拓かれているといっても車が登れる地勢だから馬が登れておかしくない。因みに八合目から上に「登山口」と称する地点があるそう。八合目は標高1400~1500m、月山は1984m。
2015-5-6(水)
↓ 羽黒山神社大鳥居と月山
 ↓ 月山八合目
以下、「日本の神社・出羽三山」(「いでは歴史資料館」で購入)より
 ↓ 月山


↓やや左下に「八合目駐車場」
 ①月山中之宮(八合目駐車場から遊歩道を行く)
 ②月山八合目弥陀ヶ原
 ③仏生池
 ④行者返し。山頂近くにある岩場の急登。修験道の開祖・役行者が月山権現に追い返された場所という難所
 ⑤月山神社・本宮
 ↓ 芭蕉一行が月山頂上で「笹を舗(し)き、篠(しの)を枕として、臥して明くるを待った」のは、こんな小屋だったそう。「いでは歴史資料館」に展示されていた。こんな小屋が山頂に至る間に幾つも設置されていたらしい。

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