《奥の細道》《鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)を改めて、越中の国市ぶり(実は越後の国)の関に到る。此の間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。‥‥》
〇《奥の細道》の中の、羽前鼠の関から越後市振までの旅程の記述はたったこれだけ。
↓「市振関所跡」 芭蕉と曾良はこの関所を通った。
↓「市振関所址 江戸時代初期徳川幕府は、重要な政策の一環として全国に53の関所を設け、街道行旅の人々を取り締まった。「市振の関」はその53関中重要23関の一つであった。親不知子不知の険難の地を東方に控え、北陸道に於ける越中との国境の要衝として寛永(1624~)年代のはじめ幕府は高田城主松平光長に命じて、ここに関所を設けた。
関所関所で髪改める 娘十七髪解けん 今に伝えられる
この関所の特徴は行旅の人々の検問のための番所と、海上監視の遠見番所から成っていたことである。‥‥
なお、現存する市振小学校校庭内の榎は、関所敷地内にあったもので、昭和49年4月16日「関所榎」として青海町文化財に指定する」
〇遂に越後路を通り抜けた。
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