《奥の細道》《卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中(なか)の五日也。》
『曽良随行日記』『十五日 快晴。高岡ヲ立。埴生八幡ヲ拝ス。源氏山、卯の花山也。クリカラヲ見テ、未の中刻、金沢二着。』
〇高岡を立った芭蕉・曾良一行が、倶利伽羅峠登り口に鎮座する埴生八幡神社に参詣してから峠を越えて行ったことは随行日記に明らか。埴生八幡神社は平家物語に登場する由緒ある神社。木曾義仲が倶利伽羅峠での平家との合戦に臨むに当たって戦勝祈願をしたところ白鳩が飛び立つ瑞祥が現れたという。
【平家物語】(小学館・日本古典文学全集 校注訳・市古貞次より)
《火打合戦》‥‥‥木曾自身は一万余騎で小矢部の渡りを渡り、砥浪山(となみやま)の北のはずれにある羽丹生(はにゅう)に陣を構えた。
《願書(ぐわんじょ)》木曽義仲の言われたことは、「平家は大軍だから、きっと砥浪山(となみやま)を越えて広い所に出て遭遇戦をしようとしているだろう。しかし遭遇戦は兵力の多少によって勝負が決するもの。大軍の相手を勢いに乗らせてはまずかろう。まず旗手を先に出して源氏の白旗を掲げていたら、平家はこれを見て「あれ、源氏の先陣がやってきたぞ。きっと大軍だろう。無分別に広い所に出て、敵は土地に詳しい者、味方は無案内、取り囲まれてはとてもかなうまい。この山は四方が巌石でできているそうなので、敵が搦め手へ回ることはよもやあるまい。ここでしばらく馬から降りて、馬を休めておこう」と言って、山の中で馬から降りるだろう。その時に義仲がしばらく適当に戦ってその場にとどめ、日の暮れるのを待って平家の大軍を倶利伽羅が谷へ追い落とそうと思っているのだ」と言って、まず白旗三十本を先に出して黒坂の上に立てた。平家はこれを見て義仲の計画通りに「あれ、源氏の先陣がやって来たぞ。きっと大軍だろう。無分別に広い所に出て行くならば、敵は土地に詳しい者、我々は無案内、取り囲まれてはまずいだろう。この山は四方が巌石でできているそうだ。敵が搦め手へ回ることはよもやあるまい。この場所は馬に食わせる草もあり、水の便もよさそうだ。しばらくの間馬から降りてここに留まり馬を休めよう」と言って、砥浪山の山中、猿の馬場という所で馬を下りて足を止めた。木曾は羽丹生に陣を構えて四方をきっと見回すと、夏山の峰の緑の木の間から、朱色の垣根がほのかに見えて、かた削ぎ造りの神社がある。前に鳥居が立っている。木曾殿はこの国の者で土地によく通じている者をお呼びになって「あれは何という神社か。何という神をお祭りしているのか」と訊かれる。その者は「八幡様でいらっしゃいます。とりもなおさずこの土地は八幡様の御領地でございます」と申す。木曾は大変に喜んで、書記として連れておられた大夫房覚明をお呼びになって「義仲は幸運なことに新八幡の御宝殿にお近づきして合戦を行おうとしている。どのようになろうとも今度の戦いには間違いなく勝ってしまうと思われる。そうであるからには、一つには後代のためにも、一つには今の祈祷のためにも、願書を一筆書いて八幡に差し上げたいと思うがどうだろう」とお聞きになる。覚明は「まことにそうなさるのが好かろうと思います」と答えて、馬から降りて書こうとする。覚明のいでたちは、濃い藍色の直垂(ひたたれ)に黒皮縅(くろがわおどし)の鎧を着て、黒漆を塗った太刀を腰につけ、黒ほろの矢を二十四本差した箙(えびら)を背負い、塗籠藤(ぬりごめどう)の弓を脇に挟み、甲を脱いで高紐にかけて背負っていたが、箙から小硯・畳紙を取り出し、木曾殿の御前に畏まって願書を書く。あっぱれ文武二道の達人と見えた。‥‥その木曾の願書で言っていることは『帰命(きみょう)頂礼(ちょうらい)、八幡大菩薩は日本朝廷の主君、代々の天皇の先祖。天皇の位を守るため、人民に利を与えるために、三身のお姿を現し、八幡三所となってこの世に現れておられる。ところが数年前より平相国という者があって日本を支配し万民を苦しめている。これは既に仏法の仇であり王法の敵である。義仲は自身低い身分ではあるが武士の家に生まれて、わずかではあるが父の遺業を継いでいる。かの清盛の暴悪を思うとあれこれ思案ばかりしておられず、運を天に任せて一身を国家に捧げている。義兵を起こして凶悪な者を退けようと試みている。しかしながら源平両家が対峙して戦闘しているにもかかわらず、兵士の間にまだ心を一つにしての戦いに臨む気が出て来ないのでまちまちの心になるのを懼れていたところに、いま一合戦をしようとしている戦場で思いがけず八幡宮を拝した。仏神の感応が熟し神助を得ることは明らかだ。兇徒を誅戮できること疑いがない。歓喜の涙がこぼれて仏神のありがたさを深く心に感じている。とりわけ曾父母の前陸奥守義家朝臣は、身を八幡大菩薩の氏子としてささげ名を八幡太郎と名乗ってより現在までその一門に属する者で八幡大菩薩に帰依しない者はいない。義仲はその子孫として長い間深く信を寄せている。今この大事を起こすのは、たとえて言えば嬰児が貝殻でもって大海の水量を測り、カマキリが斧を振りかざして大車に向かうようなもの。しかしながら国のため君のためにこの事を起こす。家のため身のためにこの事を起こすのではない。私の深い志は在天の神に感じてもらえた。頼もしいことだ、喜ばしいことだ。神前に頭を下げ願うことは、仏神の威光により霊神の力を合わせて勝利を一挙に決め、敵を四方に退散させて下さい。そしてそれで真心をこめた祈りが仏神の御心にかない仏神の思し召しで加護を与えられるならば、まず一つの瑞相をお見せ下さい。寿永二年五月十一日 源義仲敬白』と書いて、自分をはじめとして十三人の上差しの矢の鏑を抜き、願書にとり添えて八幡大菩薩の御宝殿に奉納した。頼もしいことであるなぁ、八幡大菩薩は義仲の無二の真心をはるかに御覧になったのだろうか、雲の中から山鳩が三羽飛んで来て、源氏の白旗の上をひらひらと舞うように飛ぶ。‥‥‥木曾殿は‥‥馬から降りて甲を脱ぎ手を洗い口をすすいで、今この霊鳩を拝まれたという心づかいはまことに頼もしいことであった。
「埴生護国八幡宮(はにゅう ごこく はちまんぐう)は、奈良時代の養老年間に宇佐八幡宮の御分霊を勧進したのが始まりとされています。祭神は、八幡大神(産業・文化・勝運の神)です。天平時代には、越中の国司として富山に来た万葉歌人・大伴家持が国家安寧を祈願したと伝えられています。平安時代の末、寿永2年(1183年)5月、木曽義仲(きそ の よしなか、源義仲)が倶利伽羅山で平維盛(たいら の これもり)の大軍と戦を始めるにあたり、埴生の地に陣を構え護国八幡宮で戦勝祈願を行いました。この祈願については、平家物語や源平盛衰記などに語られています。以来、蓮沼城の城主・遊佐氏、武田信玄、佐々成政など多くの戦国武将が篤く埴生護国八幡宮を信仰しました。江戸時代に入ると加賀藩主前田家の祈願社となりました。埴生護国八幡宮の社殿(本殿・釣殿・拝幣殿の三棟)は、桃山期から江戸時代初期に加賀藩の寄進で建てられたもので富山県を代表する神殿建築とされ、国の重要文化財に指定されています。富山県内にある神社関連の国指定文化財としては護国八幡宮の他に、気多神社本殿(高岡市)、白山宮本殿(南砺市)、雄山神社前立社壇本殿(立山町)があります。建物自体は、落ち着いた簡素なもので一見すると「地元のお宮さん」であり国指定重要文化財としてのオーラーは発していないが、地元のお宮さんと見るには規模が大きく、よく整備されている(昭和5年から7年に社殿解体修理を実施)。ガラス張りの雪囲いも無く、本殿の近くまで行けるので建物の見学が容易。」
↓埴生八幡神社
↓木曾義仲公銅像
↓鳩清水
↓拝殿・重文
↓本殿
↓道の駅・倶利伽羅源平の郷埴生口にて。木曾義仲公の兜(模造)。
仲軍の俱利伽羅峠への進撃路である富山県埴生口(埴生八幡宮が鎮座する)に道の駅があり、資料展示場がある。
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