2020年2月14日金曜日

★奥の細道紀行 第269章 加賀市山中温泉到着「大木戸門址」

《奥の細道》 《温泉に浴す。其功有明(有馬の写本ミス)に次と云。
山中や菊はたおらぬ湯の匂(★註)
あるじとする物()は、久米之助とて、いまだ小童也。かれが父俳諧を好み、洛(京都)の貞室、若輩のむかし、爰に来りし比、風雅に辱しめられて、洛に帰て貞徳の門人となって世にしらる。功名の後、此一村判詞の料(はんじのりょう俳諧の指導料)を請ずと云。今更むかし語とはなりぬ。》
★註 謡曲『菊慈童』(周の国の慈童が菊の露を飲んで不老長寿を得たとする話)を下敷きとして、薬効のある山中温泉の湯ならば、菊を手折ってその露など飲まなくても700年の不老長寿効果が得られるに違いないという宿屋の主人泉屋久米之助(桃妖)への挨拶に詠んだ句。
曾良随行日記』 一 廿七日 快晴。所ノ諏訪宮祭ノ由聞テ詣。巳ノ上刻、立。斧卜・志挌等来テ留トイヘドモ、立。伊豆尽甚持賞ス。八幡ヘノ奉納ノ句有。真(実)盛が句也。予・北枝随レ之。
一 同晩 山中ニ申ノ下尅(さるのげこく・午後5時過ぎ)泉屋久米之助(★註)方ニ宿ス。山ノ方、南ノ方ヨリ北へ夕立通ル。
★註 14歳だったという。芭蕉を師と仰ぐこと篤く、芭蕉から「桃妖」という俳号を戴いた。
↓大木戸門跡。山中温泉の入口に設けられていた。ここはきっと通ったろう。菊乃湯、泉屋から遠くない。


 ↓「山中温泉大木戸門址」石碑
 ↓芭蕉句碑 《漁り火に河鹿や波の下むせひ 芭蕉》
 ↓芭蕉句碑 《や万なかや菊はたおらじゆのにほひ はせを》
 ↓芭蕉句碑
↑左の石に嵌め込まれた白い板に記された句が↓
 《今日よりや書付消さん笠の露
 芭蕉は曾良とここ山中温泉で別れた。曾良が先に旅立った。曾良が独り旅立ったとき芭蕉が詠んだのがこの句。当時旅に出るときは笠の裏に「同行二人」と書き付けて旅をした。四国お遍路では襷に書いてそれを掛けて歩く。旅は独りでしているのではない、常に弘法大師空海が一緒に旅をして下さっているという思想を表している。芭蕉は「同行二人」に曾良と共にの意を込めてこの句を詠んだのだろう。遂に曾良と別れることになった、笠の裏に書付た「同行二人」の書付を今日からは消そうという意味だろう。別れることになった理由は、芭蕉が書簡に書き残したように曾良の腹痛ではないように思う。腹痛を起こした者が先に旅立つというのはおかしい(留まって養生するのが先だろう)。曾良・隠密説が発生するのも奇抜すぎるとも言えない。が、ボクは芭蕉の句意から何か情緒的な理由を嗅ぎ取る。北枝の存在が関わる。北枝が芭蕉を師と仰ぎ慕う様は尋常ではない。芭蕉も北枝を愛したろう。曾良の心の奥に嫉妬の青い火が密かに点じられていても不自然ではない。北枝は金沢から山中まで曾良と共に芭蕉に同行し、山中から越前松岡・天龍寺までは曾良に代わって同行二人となる。そして松岡天龍寺で別れるとき、芭蕉はそこでも北枝を念頭に情緒的な別離の句を詠んでいる




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