〇芭蕉は松岡→永平寺→福井の間は独りで旅することになった。心細かったに違いない。そして芭蕉が福井で洞哉宅を訪ね当てて会うことができた場面は《奥の細道》の中でも出色の情趣の深い章である。
↓左内公園。橋本佐内の墓がある。等哉宅跡は、左内の銅像の横にあった。
↓橋本佐内の銅像
↓橋本佐内の墓
↓ 等(洞)哉宅跡
「芭蕉宿泊地・洞哉宅跡」
↓「芭蕉宿泊地洞哉宅跡」
「松尾芭蕉が、「奥の細道」の旅の途中、福井の俳人洞哉を訪れたのは、元禄2年8月11日(1689年:陽暦9月24日)のことだといわれます。この洞哉という人がどのような人物であったかはあまり知られていません。芭蕉の死後約100年後の寛政4年(1792)、福井の俳人達が百回忌の法会を営みました。その時の記録の中に、「洞哉という人は、貧しい暮しをしており、芭蕉が訪れたときも枕がなく、幸い近くの寺院でお堂を建てていたので、ころあいの良い木片をもらってきて芭蕉の枕とした。」(祐阿『道の恩』寛政4年)という話があります。このような人柄が、芭蕉に気にいられたのか、芭蕉は洞哉の家に2泊したのち連れ立って敦賀へと向かいます。」「名月の見所問ん旅寝せん」
↓左内公園の道を挟んで向かいにある顕本寺
↓「此の堂に縁由ある口碑のあらましをしるさむに 今より二百三十年余前元禄己巳の秋 俳祖芭蕉翁か 穏士等哉坊にまみゆとして 名月の見所問むの句あり 此の時のことにや 近き寺院に番神堂建立の作事小屋より木片を請ひ来て仮の枕に当たるを後世に伝へ 寛政の頃祐阿坊なる俳人京師え携行て祖翁跌坐の一体を刻せたりと そも此の堂は元禄当時のものにあらずとも起工の古を知へく 又等哉の侘住居のこの辺りなりしをしのひ茲に記るすことなり」
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