2020年2月21日金曜日

★奥の細道紀行 第298章 大垣市船町正覚寺「芭蕉木因(ぼくいん)遺跡」

〇ここが正覚寺の入口。そうは見えない。が、「史蹟・芭蕉木因遺跡」の石碑がある

↓「当境有芭蕉翁碑」
↓「芭蕉・木因遺跡 俳友谷木因と数多くの門人が大垣に居たため、俳聖松尾芭蕉の美濃来遊は四回ありました。木因は、名を正保、九太夫、号を木因と称しました。船町の船問屋の家に生まれ、北村季吟の門に入って俳諧を学びました。芭蕉とは同門であったので壮年から交わりが深く、貞享、元禄年間に大垣俳人の先駆をなしました。元禄七年(1694)芭蕉が大坂で病没すると、芭蕉の門人であった近藤如行らは、船町正覚寺に芭蕉の百ヵ日忌を記念して芭蕉塚を築き、追悼の意を表しました。その後、同寺には谷木因の墓をはじめ、美濃派歴代宗匠の句碑などが建立されました」
↓芭蕉・木因遺跡。左端に木因の墓がある。中央やや右側に芭蕉翁碑がある。
↓遺跡の向かいに建つ本堂
↓「俳聖松尾芭蕉の大垣来遊(4回)は、俳友谷木因(たにぼくいん)をはじめとした大垣俳人を訪ねてのことである。木因は芭蕉と同門で北村季吟から俳諧を学んだ。そのため、芭蕉との親交が深く、大垣藩士近藤如行(じょこう)ら多くの俳人を芭蕉門下とした。元禄7年(1694)芭蕉が大阪にて病没すると如行らはこれを深く悼み、正覚寺に路通筆「芭蕉翁」追悼碑を建てた。さらに、木因の死後芭蕉と木因の親交を偲び、木因碑を建て「芭蕉・木因遺跡」とした」
↓木因墓

↓中央に芭蕉翁碑
↓「芭蕉翁」碑

↓以下、門人の句碑
↑↓「安永五歳」建立







↑↓「寛政十二」建立


↑↓「安政六年」建立
その他は明治以降の建立
↓本堂から見た遺跡

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