鹿島神宮の真骨頂はその森、深くて広い。
大杉はどういう訳か一方向に傾いている
さざれ石
太古からの森。
奥宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
要石「境内の要石(かなめいし)は、地震を起こす大鯰の頭を抑える杭と言われ、見た目は小さいが地中部分は大きく、決して抜くことはできないと言い伝えられている。17世紀に当時の封建領主が、6日6晩ものあいだ、剣の周りを掘らせたが、結局剣の先には届かなかったといわれる。『万葉集』に記述があり、「ゆるげども、よもや抜けじの要石、鹿島の神のあらん限りは」と詠まれていて、「鹿島の神さえいれば、要石は緩むことはあっても抜けてしまって、大鯰が暴れる(大地震が起こる)ことはないだろう」という意味であり、古くから「要石と鹿島の神、地震と大鯰」の関係が、夙(つと)知られていたことが伺える。過去において「神無月」に起きた大地震の幾つかは、鹿島の神が出雲に出向いて、留守だったために起きたと伝承されているものがある」
御手洗(みたらし)
御手洗のあるこちらの方がその昔、表参道だったらしい。
外から鳥居を見る。
2010年5月28日金曜日
鹿島神宮
偕楽園を後にして奥州平泉を目指すつもりで常磐道・水戸北ICに戻った。ところがこのICはスマートICで、東京方面にしか行けなかった。で、行き先は急遽南の方「鹿島神宮」に決まった。友部JCTで北関東自動車道に入り、茨城町JCTで東関東自動車道に乗り換えて茨城空港北ICで下りた。そこから延々北潟の東を鹿島神宮目指して南下した。途中で雨になった。睡魔に襲われ路傍にセレナを停めて眠った。鹿島神宮到着は午後二時過ぎ。不思議なことに着いた途端に雨が上がった。
鹿島神宮 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「鹿島神宮(かしまじんぐう)は、茨城県鹿嶋市にある神社。式内社、常陸国一宮で、旧社格は官幣大社である。日本全国に約600社ある鹿島神社の総本社である。同県神栖市にある息栖神社、千葉県香取市にある香取神宮と合わせて東国三社と呼ばれる。正月三が日は全国から60万人以上が参拝しており、初詣参拝者数では茨城県2位を誇る。武甕槌神を祭神とする。武甕槌神が、香取神宮に祀られている経津主神とともに武芸の神とされていることから、武術の道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた2軸の掛軸が対になって掲げられていることが多い。鹿島神宮の祭神は、『万葉集』にも詠われる「鹿島の神」という一般名称でも知られ、かつて地震は「地中に棲む大鯰(おおなまず)が起こすものと考えられていて、その大鯰を押さえつける「要石」を、鎮護する地震の守り神として現在にも伝わっている。創建は神武天皇1年、紀元前660年と伝えられているが、本当のところはよくわかっていない。『常陸国風土記』では、神代の時代に神八井耳命の血を引く肥国造の一族だった多氏が上総国に上陸、開拓を行いながら常陸国に勢力を伸ばし、氏神として建立されたのが現在の鹿島神宮の起源[要出典]だとされているが、倭奴国王印が1世紀中頃のことであり、卑弥呼が3世紀前半の人物であり、倭の五王が5世紀の人物たちである、ということを考えると、鹿島神宮の創建が紀元前7世紀であるとは考え難いという意見もある。平安時代に、「神宮」の称号で呼ばれていたのは、延喜式神名帳によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の3社だけだった。鹿島神宮・香取神宮共に蝦夷に対する大和朝廷の前線基地であった。宝物殿には悪路王(アテルイ)の首と首桶が祀られている。
式年大祭御船祭(おふなまつり)12年に1度の午年に行われ、鹿島神宮の御祭神である武甕槌大神と香取神宮の御祭神である経津主大神が水上で出会う鹿島神宮最大の祭典であり、水上の御船祭としては日本最大の規模を誇る。應神天皇の時代に祭典化されたと伝えられている。戦国の混乱により室町時代に大祭としては一度途絶えたが、明治3年(1870年)に数隻の船によって御船祭は再興され、同20年(1887年)に午年毎の式年大祭として定められた。現代の御船祭りでは、まず9月1日午前、天皇から遣わされる勅使の参向を仰いで例大祭が執り行われる。2日早朝に鹿島神宮を進発した神輿は陸路を北浦湖岸の大船津に到着。大船津で神輿は龍頭の飾りなどを施された御座船(ござぶね)に載せられ、船団を組む数十隻(2002年においては約90隻)の供奉船とともに水上渡御し香取市加藤洲に至る。そこで香取神宮の御迎祭を受けて雅やかな祭礼のハイライトを迎える。その後、水路を御還行して行宮に戻り、3日午後、行宮から本殿へと還幸する。」
鹿島神宮には立派な門前町が形成されている。
神門
神門・内側
神門を潜ると横に稲荷神社がある
大杉が神門を潜ると聳えている
拝殿。神門の近くにある、意外と近い。
拝殿・横手
本殿
右手から見た拝殿と本殿
左手から見た本殿と拝殿
左手から見た本殿
左手から見た拝殿
本殿の屋根
仮殿
鹿島神宮 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「鹿島神宮(かしまじんぐう)は、茨城県鹿嶋市にある神社。式内社、常陸国一宮で、旧社格は官幣大社である。日本全国に約600社ある鹿島神社の総本社である。同県神栖市にある息栖神社、千葉県香取市にある香取神宮と合わせて東国三社と呼ばれる。正月三が日は全国から60万人以上が参拝しており、初詣参拝者数では茨城県2位を誇る。武甕槌神を祭神とする。武甕槌神が、香取神宮に祀られている経津主神とともに武芸の神とされていることから、武術の道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた2軸の掛軸が対になって掲げられていることが多い。鹿島神宮の祭神は、『万葉集』にも詠われる「鹿島の神」という一般名称でも知られ、かつて地震は「地中に棲む大鯰(おおなまず)が起こすものと考えられていて、その大鯰を押さえつける「要石」を、鎮護する地震の守り神として現在にも伝わっている。創建は神武天皇1年、紀元前660年と伝えられているが、本当のところはよくわかっていない。『常陸国風土記』では、神代の時代に神八井耳命の血を引く肥国造の一族だった多氏が上総国に上陸、開拓を行いながら常陸国に勢力を伸ばし、氏神として建立されたのが現在の鹿島神宮の起源[要出典]だとされているが、倭奴国王印が1世紀中頃のことであり、卑弥呼が3世紀前半の人物であり、倭の五王が5世紀の人物たちである、ということを考えると、鹿島神宮の創建が紀元前7世紀であるとは考え難いという意見もある。平安時代に、「神宮」の称号で呼ばれていたのは、延喜式神名帳によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の3社だけだった。鹿島神宮・香取神宮共に蝦夷に対する大和朝廷の前線基地であった。宝物殿には悪路王(アテルイ)の首と首桶が祀られている。
式年大祭御船祭(おふなまつり)12年に1度の午年に行われ、鹿島神宮の御祭神である武甕槌大神と香取神宮の御祭神である経津主大神が水上で出会う鹿島神宮最大の祭典であり、水上の御船祭としては日本最大の規模を誇る。應神天皇の時代に祭典化されたと伝えられている。戦国の混乱により室町時代に大祭としては一度途絶えたが、明治3年(1870年)に数隻の船によって御船祭は再興され、同20年(1887年)に午年毎の式年大祭として定められた。現代の御船祭りでは、まず9月1日午前、天皇から遣わされる勅使の参向を仰いで例大祭が執り行われる。2日早朝に鹿島神宮を進発した神輿は陸路を北浦湖岸の大船津に到着。大船津で神輿は龍頭の飾りなどを施された御座船(ござぶね)に載せられ、船団を組む数十隻(2002年においては約90隻)の供奉船とともに水上渡御し香取市加藤洲に至る。そこで香取神宮の御迎祭を受けて雅やかな祭礼のハイライトを迎える。その後、水路を御還行して行宮に戻り、3日午後、行宮から本殿へと還幸する。」
鹿島神宮には立派な門前町が形成されている。
神門
神門・内側
神門を潜ると横に稲荷神社がある
大杉が神門を潜ると聳えている
拝殿。神門の近くにある、意外と近い。
拝殿・横手
本殿
右手から見た拝殿と本殿
左手から見た本殿と拝殿
左手から見た本殿
左手から見た拝殿
本殿の屋根
仮殿