2012年6月30日土曜日
〇越前勝山「越前人形の里」「岩屋大杉」「勝山恐竜博物館」「白山神社平泉寺」、越前大野「大野城」
今朝は午前10:15と出遅れた。尼御前SAで11:30。睡魔の猛襲に耐えかねて仮睡。目覚めたら午後1:30。若狭・小浜で遊覧船に乗り「蘇洞門(そども)」を海上から見る計画を断念。近場の見学に。そこで丸岡ICで下りて「越前竹人形の里」へ。前回初めて竹人形を見た時に感動した思い出が蘇ったので。竹の素材の性質を利用した見事な芸術作品をもう一度鑑賞しようと思った。非売品展示会場の竹人形をあとで紹介する。「岩屋大杉」を訪ねるのは3、4度目。その巨大で奇っ怪な姿は、生命のダイナミズムをほとばしる情熱を以って表現している。立山杉と同じ出来栄え。制作過程も同じ。冬の大雪に押し潰されてもめげずに頭を擡げ続けた不屈の姿。「勝山恐竜博物館」に飛び込んだのは午後4:30、入館締め切りギリギリ。閉館は5:00。30分間で回るには中味があり過ぎた。この博物館には驚嘆させられた。展示資料の質と量が世界最高水準の博物館だったのだ。展示の仕方も見事なもので目を瞠らされる。時間をたっぷり用意してまた行くしかない。夕暮れ近い午後5:15、白山神社平泉寺に到着。ここの苔の境内を散策すると心が安まる。もう何度目の訪問だろう。そろそろ片手に余るだろう。今年の苔の色は、例年よりも薄いような気がした。梅雨を越して盛夏を迎えると苔の緑が輝くだろうか。勝山から大野に出た。大野城を探訪するつもりだったが、思いの外立派な堅城で高い山頂まで歩いて登らねばならない。無理なのでまたの日を期することにした。それにしても市街地から仰ぎ見る天守閣や櫓は立派すぎる。北陸自動車道・南条SAに居る。今夜はここで泊まる。雨がしとしとと降っている。明日は小浜に行き遊覧船に乗るつもりだが、果たして天候が許すかどうか。
〇名張市「弥勒寺」
三重県名張市は、組み紐で有名。伝統工芸が息づいているから、文化財も沢山あるかと思うとそれが意外にも少ない。弥勒寺に、十一面観音像と聖観音像の二体の重要文化財仏像があるというので探訪することに。
↓春日神社が弥勒寺と一緒にある。神仏習合の典型形態だろう。
↓弥勒寺本堂。本堂しかない。この本堂、木造ではない。鉄骨コンクリート造。この中に重文仏像が安置されているのだろうとの期待を抱かせる。
↑国指定の重文仏像二体、十一面観音像(平安後期)と聖観音像(平安)が安置されていると書いてある。本堂隣の住居兼寺務所を訪ねたが誰も居ない。
↓仕方なく本堂を外からガラス戸越しに覗いてみる。なかなかの古仏が安置されているのが見えたが、観音像二体は見えなかった。
〇いよいよ今回の旅のお目当ての《室生寺》再訪と、《室生龍穴神社》探訪へ。
↓春日神社が弥勒寺と一緒にある。神仏習合の典型形態だろう。
↓弥勒寺本堂。本堂しかない。この本堂、木造ではない。鉄骨コンクリート造。この中に重文仏像が安置されているのだろうとの期待を抱かせる。
↑国指定の重文仏像二体、十一面観音像(平安後期)と聖観音像(平安)が安置されていると書いてある。本堂隣の住居兼寺務所を訪ねたが誰も居ない。
↓仕方なく本堂を外からガラス戸越しに覗いてみる。なかなかの古仏が安置されているのが見えたが、観音像二体は見えなかった。
〇いよいよ今回の旅のお目当ての《室生寺》再訪と、《室生龍穴神社》探訪へ。
2012年6月29日金曜日
〇浄土真宗・高田本山「専修寺(せんじゅじ)」、三重県津市
浄土真宗の本山と謂えば、北陸の人間は本願寺しかないように思い込んでいる。が、全国を見れば幾つかの地域に本願寺とは別系統の本山がある。本願寺は、第八世・蓮如が北陸を中心に組織した真宗門徒集団の本山というだけのこと。高田本山は、境内に上がった寄進札を見ると三重県を中心とする教団。末寺の殆どは三重県内にある。しかし数は少ないが、末寺は全国に散在している。高田本山の特筆すべき特色は、親鸞上人の直筆文書のうちその約四割を保有していること。
↑唐門
↑石橋と釘貫門
↑山門
↑山門を潜ると正面に御影堂が建つ。親鸞上人の御影を祀る。
↑鐘楼
↑御影堂の中。
↑如来堂。阿弥陀如来を祀る。巨大な御影堂の横に巨大な(しかしちょっと小さ目の)阿弥陀如来堂が並ぶ形式は東西本願寺も全く同じ。
↑手前・如来堂、奥・御影堂。
↑右・唐門、左・山門
↑右・御影堂、左・如来堂
↑国宝・紙本墨書「三帖和讃(さんじょうわさん)」親鸞筆・三冊、鎌倉時代。
↑国宝・紙本墨書「西方指南抄」親鸞筆・六冊、鎌倉時代
↑重文・紙本墨書「親鸞聖人消息」10巻、鎌倉時代。
↑御廟
↑御廟唐門
拝殿
↑御廟
↑唐門
↑石橋と釘貫門
↑山門
↑山門を潜ると正面に御影堂が建つ。親鸞上人の御影を祀る。
↑鐘楼
↑御影堂の中。
↑如来堂。阿弥陀如来を祀る。巨大な御影堂の横に巨大な(しかしちょっと小さ目の)阿弥陀如来堂が並ぶ形式は東西本願寺も全く同じ。
↑手前・如来堂、奥・御影堂。
↑右・唐門、左・山門
↑右・御影堂、左・如来堂
↑国宝・紙本墨書「三帖和讃(さんじょうわさん)」親鸞筆・三冊、鎌倉時代。
↑国宝・紙本墨書「西方指南抄」親鸞筆・六冊、鎌倉時代
↑重文・紙本墨書「親鸞聖人消息」10巻、鎌倉時代。
↑御廟
↑御廟唐門
拝殿
↑御廟
↑太鼓櫓
〇美濃国不破郡《青墓》。円興寺、梁塵秘抄「乙前」の故郷、源朝長の墓
〇美濃国不破郡《青墓》の地名は、ボクの心に浪漫的な情趣を抱かせる。一度は訪れたいと思っていた。そう思う理由は二つ。その一、後白河法皇の編纂した「梁塵秘抄」、この中に登場する法皇の師であった遊女「乙前」の出生地が青墓。その二、平治の乱で敗れた源義朝が一族郎党と雪中東を指して落ちる時、長男悪源太義平は飛騨で兵を募るため別れ・三男頼朝は幼少のため落後して捕えられ、次男朝長はこの《青墓》の地まで来たが腿に傷手を負って動けなくなりここで志願して父義朝の手で刺殺され葬られた。いわばここは歴史文学の故郷・淵叢。《青墓》の名もロマン的で興趣をそそる。
↑円興寺は今は平地の小寺だが、平安末期・源平争乱期には山上の大寺だった。それは後で示される。その山上に、源朝長の墓がある。
↓円興寺本尊・聖観音立像(重文)。円興寺を訪れたのはこの聖観音像に逢うためだったが、非公開。
↓円興寺境内の梁塵秘抄石碑。京都に上った乙前が今様の名人と称された後、後白河法皇の師となって梁塵秘抄の編纂に貢献したことが刻されている。
↓円興寺境内に置かれた油絵。
↓円興寺が、源朝長の菩提寺であることを示す。但し墓所はかつて円興寺が存在した山上にある。
青墓に青少年憩いの森遊歩道が整備されている。図の右上の山上に「源朝長の墓跡」がある。
↓上図の右上の拡大図。図右下に元円興寺仁王門跡があり、その上に「源朝長の墓跡」がある。元円興寺の鐘楼跡・御堂跡・講堂跡・僧房跡・金堂跡・多宝塔跡などがあり、往時円興寺が大寺であったことを物語る。多分天台密教と修験道が混合していた寺。
↓その「源朝長の墓跡」までは遊歩道を登らねばならない。夕暮れも近づいたし、ボクの心臓には難があるしで到達を諦めた。
〇この後大垣市内に入り、国道をひたすら南下して伊勢方面に向かい今夜の宿営地を探した。東名阪道・御在所SA(三重県四日市市)で泊まった。
↑円興寺は今は平地の小寺だが、平安末期・源平争乱期には山上の大寺だった。それは後で示される。その山上に、源朝長の墓がある。
↓円興寺本尊・聖観音立像(重文)。円興寺を訪れたのはこの聖観音像に逢うためだったが、非公開。
↓円興寺境内の梁塵秘抄石碑。京都に上った乙前が今様の名人と称された後、後白河法皇の師となって梁塵秘抄の編纂に貢献したことが刻されている。
↓円興寺境内に置かれた油絵。
↓円興寺が、源朝長の菩提寺であることを示す。但し墓所はかつて円興寺が存在した山上にある。
青墓に青少年憩いの森遊歩道が整備されている。図の右上の山上に「源朝長の墓跡」がある。
↓上図の右上の拡大図。図右下に元円興寺仁王門跡があり、その上に「源朝長の墓跡」がある。元円興寺の鐘楼跡・御堂跡・講堂跡・僧房跡・金堂跡・多宝塔跡などがあり、往時円興寺が大寺であったことを物語る。多分天台密教と修験道が混合していた寺。
↓その「源朝長の墓跡」までは遊歩道を登らねばならない。夕暮れも近づいたし、ボクの心臓には難があるしで到達を諦めた。
〇この後大垣市内に入り、国道をひたすら南下して伊勢方面に向かい今夜の宿営地を探した。東名阪道・御在所SA(三重県四日市市)で泊まった。
2012年6月28日木曜日
〇史蹟・美濃国分寺跡(2)
↑金堂跡に立って、塔跡を見る。
↓塔跡
↓塔跡の心礎
↓「史蹟・美濃国分寺址」
↓経蔵跡
鐘楼後
〇経蔵跡と鐘楼跡は、金堂回廊境内の外側・後方にある。左右バランスよく配置されている。
↓そしてさらに後方の中央・築地塀の位置に講堂跡がある。
↓写真を右回りに90°回転させてみるのが正しい。講堂の礎石。
↓講堂跡から、金堂・南門方向を見る。
↓南門・中門・金堂・講堂が正中線上に位置する。金堂回廊境内の中に巨大な塔があり、講堂・経蔵・鐘楼は回廊外の後方にある。南門から左右に延びる環濠と築地塀が広大な境内を囲む。
↓↓に南門があり、上に講堂がある。
↓塔跡
↓塔跡の心礎
↓「史蹟・美濃国分寺址」
↓経蔵跡
鐘楼後
〇経蔵跡と鐘楼跡は、金堂回廊境内の外側・後方にある。左右バランスよく配置されている。
↓そしてさらに後方の中央・築地塀の位置に講堂跡がある。
↓写真を右回りに90°回転させてみるのが正しい。講堂の礎石。
↓講堂跡から、金堂・南門方向を見る。
↓南門・中門・金堂・講堂が正中線上に位置する。金堂回廊境内の中に巨大な塔があり、講堂・経蔵・鐘楼は回廊外の後方にある。南門から左右に延びる環濠と築地塀が広大な境内を囲む。
↓↓に南門があり、上に講堂がある。