佐渡・両津港発09:30、新潟港・佐渡汽船ターミナルに着いたのが11:45。細雨。かねて絵になる風景がひょっとして残っているのではと気になっていた「鳥屋野潟(とやのがた)」にわざわざ寄ってみた。新潟市内にある。周りが完全に都市化されていて絵になる風情とおよそ遠い。無駄だと思ってはいたが、やはり無駄だった。時間の浪費。国道八号線を三条市へ。宛てがあった訳ではない。新潟市から三条市に入った国道沿い右側に広大で綺麗な果樹園が続いていた。素晴らしい。桃・梨・林檎の花が盛り。コンビニで「三条市・観光」で検索。目ぼしい探訪地なし。当てずっぽうに「石動(いするぎ)神社」をクリックしたら「石川雲蝶」の彫刻があると書いてあったので探訪することに。難は400段の石段あり。現地は昔ながらの農村。案内標識は何もなし。見当がつかないので地元の人に当たったらその人が氏子総代。それが親切で健康な中年の人で400段の山上まで案内してくれた。そして拝殿を開けて中の欄干の彫刻まで見せてくれた。ボクは向背(拝殿の前にせり出した玄関の様な部分)の彫りモノだけ見るために400段を上り下りするつもりだった。拝殿の両脇縁にも作品があることを教えてくれた。天井の格子絵にも3枚・雲蝶の絵があることを示してくれた。もの凄い好運だった。最後に社務所を開けてお茶を御馳走してくれた。「石動神社」は能登の石動山の「伊須流伎神社」の神を勧請したそう。
下山して下道をさらに長岡市まで辿った。ここでもコンビニでネット検索。長岡も古い街だが目ぼしい探訪地がない。ボクの気を動かしたのは「木喰上人・観音像」があるという寺、「寶生寺」。郊外にあり到着すると午後5時近く。寺院の拝観は遅くとも5時。9割方期待せずにとにかく訪れてみることに。到着はカーナビの予測通り17:50。小振りな本堂はシンとして閉ざされ「木喰堂」は鉄扉が閉ざされ頑固な錠前が下ろされている。諦めかけたが、隣の居宅(庫裏ではない)のインターホンを押してみた。女性の声がしたので「木喰堂の拝観はできますか」と問うと、一瞬微妙な間を措いて「ちょっとお待ち下さい」。運は未だ続いていた。玄関を開けて出てきたのは老境に差し掛かった奥さん。「本当は予約を入れて貰うことになってるんですよ」と言いながら御堂まで案内して扉を開けてくれた。が、その手間なこと。鉄扉の錠前を外して重い戸を開ける、中戸があってそれにも鍵が掛かっている。拝観料は志納。33体の仏像が上下4、5段になって居並んでいる。その前で奥さんは懇切に説明してくれた。木喰上人87歳の時(因みに没年は93歳という)、二人の弟子を連れてこの寺に泊まり、ひと月半で33体の観音像を彫り上げられたという。ある仏師にそんなことって可能でしょうかと尋ねると、言下に不可能。銀杏の大木一本から彫られたというから、村人達が伐採・寸断・荒削りに協力を惜しまなかったろうし、二人の弟子が献身的に彫り進めたろうという意見。元は33体揃っていたが、火事の時一体が消えた(燃えたという趣旨ではなさそう)。今は上人・自刻像が真ん中に坐って都合33体。「撮影禁止」だったがお願いしたら堂外から撮らせてくれた。それを深謝したら「御縁があったんでしょう」。参拝できたことを感謝すると「木喰上人の方こそお会いできたことを有難く思ってらっしゃると思います」。ウーン、痺れました。好運もここまで来ると・もう運の尽きと覚悟しておかないと。明日は高崎・富岡辺りから探訪を始めようと思うが・運が尽きないことを神仏に祈りながら殊勝に行動したいと思います。ここは「越後川口PA」。ネットに繋がったので今夜はここに泊まることにした。佐渡島からここまで・今日一日無事に旅することができましたことを感謝致します。日本は神仏に満ち満ちた国だなぁ、実感。(^.^)/~~~
2013年4月30日火曜日
〇4/30(火)今、両津港・佐渡汽船カーフェリ―岸壁。
やっとネットワークに繋がった。09:30発の「おけさ丸」で新潟港に向かう。佐渡島滞在、実質一日半、足掛け三日。有名な海岸線は周ったし、相川金山も見たし、古刹も拝観したし、最後に佐渡特有の村々に〆て十数か所もある能舞台も二つ見れた。まずまずの成果でないか。正午過ぎ、新潟港に下りたら、その先の旅程ははっきりしていない。旅の後半の旅程として念頭に在るのは関東地方で過ごすこと。旅の詳報は追って。おけさ丸の車輛甲板より(^.^)/~~~
2013年4月27日土曜日
〇4/27(土) 今日からGW、例年通り旅に出た。今年は短縮して10日間。
日本全国旅をしたら行く所がなくなった。で、今年は佐渡島に渡ろうと思う。出発が遅くなって正午過ぎ。直江津港着、三時。ターミナルに入って時刻表を見てみると、偶数日と奇数日で出航時刻が全然違う。今日は二便で、午前の便は7:00、午後の便は13:30に出ている。明日は午前の便が9:30発で(これは確実)、午後の便が16:30?船賃が高くて車長が4m超だと片道18,000円強。セレナは419cm。とにかく明朝、佐渡島に渡航するつもり。
直江津港から上越高田の街に入って、上杉謙信の春日山城の麓の「林泉寺」を探訪。拝観料・500円、ちと高い。その後高田公園に行き、徳川忠輝築城の高田城・本丸を探訪。シンボルの三層櫓を廻って来た。今「道の駅・あらい」に居る。大きな道の駅。妙高高原・池の平の「シェーネ」に行って泊まることも考えたんだが、シェーネの朝食は遅い。明朝は直江津港に8:30までに到着するつもりなので断念した。佐渡島から無事戻れたら、越後の国を廻って、それから関東に入る。関東一円の重文の神社・仏閣、仏像をNetで検索して探訪してみるつもり。本当は伊豆・韮山の「願成就寺」に行き、最近国宝指定されたばかりの薬師如来・不動明王など五、六体の仏像を(それらが一括して全部国宝指定されたんだから凄い)拝観したいんだが、一人では拝観申出をするのがちょっと気が引ける。小さな鉄筋コンクリートの建物が奥にあったが、あれが宝物館であの中に国宝仏像が所狭しと納まっているに違いない。拝観は予約制かも知れないしなぁ。とにかく情報不足。
直江津港から上越高田の街に入って、上杉謙信の春日山城の麓の「林泉寺」を探訪。拝観料・500円、ちと高い。その後高田公園に行き、徳川忠輝築城の高田城・本丸を探訪。シンボルの三層櫓を廻って来た。今「道の駅・あらい」に居る。大きな道の駅。妙高高原・池の平の「シェーネ」に行って泊まることも考えたんだが、シェーネの朝食は遅い。明朝は直江津港に8:30までに到着するつもりなので断念した。佐渡島から無事戻れたら、越後の国を廻って、それから関東に入る。関東一円の重文の神社・仏閣、仏像をNetで検索して探訪してみるつもり。本当は伊豆・韮山の「願成就寺」に行き、最近国宝指定されたばかりの薬師如来・不動明王など五、六体の仏像を(それらが一括して全部国宝指定されたんだから凄い)拝観したいんだが、一人では拝観申出をするのがちょっと気が引ける。小さな鉄筋コンクリートの建物が奥にあったが、あれが宝物館であの中に国宝仏像が所狭しと納まっているに違いない。拝観は予約制かも知れないしなぁ。とにかく情報不足。
2013年4月26日金曜日
〇「日吉大社」参道の穴太積み石垣。山王祭の最中。
〇滋賀院から日吉大社参道に顔を出そうとするところ。山王祭の最終日で香具師の露店が並んでいる。
日吉大社・参道。馬場参道と言われるぐらいに広い。正面の森の中に山王大社が鎮座する。背後の山の中に大社の摂社の一つがあり、そこから六基の大神輿の一基が下って来る。唐門と穴太積み石垣とのコラボが美しい。
唐門の両側の石垣。
↓この穴太積み石垣の美しさを見よ。
門の内側を覗いた。
日吉大社・参道とお別れした。
2013年4月24日水曜日
〇滋賀院「慈眼堂」、天海僧正の廟所。穴太積み石垣。
慈眼堂 織田信長の山門(延暦寺)焼き打ちの後、その復興に尽力した天海僧正(慈眼大師)をまつる。堂は宝形造(ほうぎょうづくり)で、前に石灯籠が二列に並ぶ。また西側には、延暦寺歴代座主(ざす)の墓や五輪塔とともに、大きな阿弥陀の石仏が並び、その厳かな雰囲気に訪れる者は圧倒される。
天海僧正
(1536年~1643年)南光坊天海。江戸時代初期に活躍した天台宗の僧。徳川家康に近く、比叡山延暦寺の再建や日光東照宮の建設、寛永寺の創建などを行う。政治的影響力の大きさから金地院崇伝などとともに「黒衣の宰相」と称せられる。
〇慈眼堂は、滋賀院門跡の裏にある。↓裏参道
↓表参道。穴太積み石垣がある。
門を潜ると直ぐに慈眼堂がある。信長の焼打ちに遭った延暦寺の再建に努めた天海僧正が祀られている。
石垣沿いに右に行くと滋賀院門跡・勅使門に至る。
楓の花らしい。
大富騎鈴社。道を右に行くとやがて日吉大社参道に出る。
日吉大社参道に向かっている。
絵を描いている人。
これは枝道。枝道にも穴太積み石垣が残っている。
(1536年~1643年)南光坊天海。江戸時代初期に活躍した天台宗の僧。徳川家康に近く、比叡山延暦寺の再建や日光東照宮の建設、寛永寺の創建などを行う。政治的影響力の大きさから金地院崇伝などとともに「黒衣の宰相」と称せられる。
〇慈眼堂は、滋賀院門跡の裏にある。↓裏参道
↓表参道。穴太積み石垣がある。
門を潜ると直ぐに慈眼堂がある。信長の焼打ちに遭った延暦寺の再建に努めた天海僧正が祀られている。
表参道から出て穴太積み石垣に沿って下ると、天台宗務庁がある。その石垣。
石垣沿いに右に行くと滋賀院門跡・勅使門に至る。
楓の花らしい。
大富騎鈴社。道を右に行くとやがて日吉大社参道に出る。
日吉大社参道に向かっている。
絵を描いている人。
これは枝道。枝道にも穴太積み石垣が残っている。
〇結願。四国88札所霊場巡り、第88番・香川県さぬき市「大窪寺」
冬の大窪寺
大窪寺の歴史・由来
八十八ヶ所結願(けちがん)の霊場「大窪寺」。徳島県の県境に近い矢筈山(標高782m)の東側中腹に位置します。縁起によると、養老元年に行基菩薩がこの地を訪れた際に、霊夢を感得し草庵を建て修行をしたと言われます。弘仁7年に、唐から帰国した弘法大師が、現在の奥の院近くの胎蔵ヶ峰という岩窟で、虚空蔵求聞持法を修法し堂宇を建立。等身大の薬師如来坐像を彫造し本尊とされました。また唐の恵果阿闍梨より授かった三国(印度、唐、日本)伝来の錫杖を納めて大窪寺と名づけ、結願の地と定めました。本堂西側にそそりたつ女体山には奥の院があります。大師が本尊に水を捧げるために独鈷で加持すると清水が湧き出たと伝えられます。その水を薬とともに服用し、ご利益を受ける人も少なくありません。女性の入山が、早くから認められ女人高野としても栄え、一時は百以上の堂宇を誇っていました。しかし天正の兵火や明治33年の火災などで寺勢は苦難を繰り返します。しかし高松藩主の庇護や歴代住職の尽力により興隆。結願聖地の法灯を守り続けています。「同行二人」を共にした金剛杖などは、大師堂脇の寶杖堂(ほうじょうどう)へ奉納されます。これらは毎年春夏の「柴灯護摩供(さいとうごまく)」で供養されます。
〇真言宗。本尊は薬師如来。
↓ 遂に最終88番目の大窪寺が見えてきた。背後の山は女体山らしい。
「四国霊場・結願所」
仁王門。
目に憤怒の色が全然ない。芸術性は乏しい。
この石段の上に大師堂がある。
大師堂
90度起こして見る。心経塔。
神の祠もある。
本堂境内。中央・本堂の背後に多宝塔の屋根が見える。
右端に、本堂の背後の多宝塔が見えている。
阿弥陀堂
本堂
不動明王坐像。
本堂と阿弥陀堂の屋根の間から見た多宝塔。本堂は本殿の後ろに中殿があり、その背後に多宝塔がある構造になっている。本尊・薬師如来は多宝塔に安置されているそう。
瑠璃光殿。瑠璃光は、薬師如来がおわす東方浄土からさしてくる。
瑠璃光殿の前に、巡礼を共にした杖を奉納する所がある。
本堂・左と阿弥陀堂・右。
背後の山は女体山。この山の中に奥院があるという。本堂とその背後の多宝塔の屋根が見える。
帰りは二天門のある参道を下りた。
梵天
帝釈天
〇腹がへったので二天門前の食堂で記念に讃岐うどんを食べた。それから一路帰路を辿り、淡路島を経由して明石市に出た。そして正月のUターンラッシュを避けて名神高速に向かわずに西に逆走して中國自動車道・吉川JCTから舞鶴自動車道に入った。舞鶴・小浜間は雪が降り雪道規制が行われていて難渋したが、敦賀ICから北陸自動車道に入って無事帰宅した。正月四日の夜でなかったか。
八八箇所の霊場巡りをこうしてブログに掲上してみてつくづく思った。四国88札所霊場を全部巡る旅はきつい。昔の人はこの道を歩き通したのだから偉い。遍路転がしの難所が随所にある。道中路傍に倒れた人も数知れないだろう。信心深くなければ不可能だった。昔の人には信心があった。ボクなら、第12番「焼山寺」の山道の途中でギブアップしている、give up しなければ死んでいる、絶対。