2013年8月31日土曜日
〇「特攻の母・鳥濱トメ」さんの語り残した話(二)
「新編・知覧特別攻撃隊」高岡修編より引用。
《中嶋豊蔵軍曹は、わたしに逢いたいために軍用トラックで来たんですが、わたしを見つけると急いでトラックから飛び降りたために、右腕をくじいてしまって、操縦桿を握ることができなくなったんです。わたしは、「中嶋さん、腕をちゃんと養生してから征くんですよ」と言ったんですが、中嶋さんは、「この腕を養生しているうちに日本は負けてしまう。勝たなければいけないから」と言うんです。わたしは、「そんな腕でどうして征くことが出来るの」と言ったんですが、中嶋さんは、「どんなことをしてでも征ける」と言い張ってききませんでした。手が動かせないので風呂に入っていないということでしたから、わたしはすぐに風呂をわかして入れてあげました。背中を流していると涙が出てきてしようがありません。「おばさん、なぜ泣くの?」と言うので、わたしは、「おなかが痛い」と言ったんです。すると、「おなかが痛いんだったら明日は見送らなくてもいいです。からだを大事にするんですよ」と言うのです。髭をぼうぼう生やした人でした。そして中嶋さんは、六月三日に、操縦桿と首を自転車のチューブでくくりつけて飛び立って行ったんです。》
↓「中嶋豊蔵少尉」第48振武隊・昭和20年6月3日出撃戦死。愛知県・20歳
〇「特攻の母・鳥濱トメ」さんの語り残した話(一)
「新編・知覧特別攻撃隊」高岡修編より引用。
《宮川三郎軍曹は出撃の前夜、わたしのところにあいさつに来られ、「明日私は沖縄に行き、敵艦をやっつけてくるから、帰ってきたときには、宮川、帰ってきたかと喜んで下さい」と言うので、「どんなにして帰ってくるの?」と尋ねたら、「ホタルになって帰ってくる」と言うのです。そしたら、約束の時間にホタルがやってきたんです。富屋食堂の裏に小川が流れていたんですが、そこに、一匹の大きなホタルがやってきて、白い花にとまったのです。本当に大きなホタルでした。思わず、みんなに、「このホタルは、宮川サブちゃんですよ」と言ったんです。そして、みんなでそのホタルを見ながら「同期の桜」を歌いました。
↓「宮川三郎少尉」第104振武隊・昭和20年6月6日出撃戦死・新潟県・20歳
2013年8月30日金曜日
〇知覧・特攻隊員の母=「鳥濱トメさん」。その笑顔は、観世音菩薩のよう。
↑「鳥濱トメ」さんの営んでいた「富屋食堂」。以下、前掲「新編・知覧特別攻撃隊」から引用。『知覧町中部にあった鳥濱トメさんの富屋食堂は、知覧分教所が開設されて以来、軍の指定食堂になっていました。特攻隊員として知覧飛行場にきた隊員たちは、鳥濱トメさんのことをいつしか「おかあさん」と呼ぶようになっていました。昭和20年3月、沖縄方面に対する特攻作戦が始まってからというもの、鳥濱トメさんは家財道具を売ってまでも、最後の思い出にと富屋食堂を訪れてくる隊員たちをもてなしたのです。』
ボクは話に聞く・特攻の母「鳥濱トミ」さんの姿を、ここで初めて写真で見た。その笑顔は、観世音菩薩のようだと感じた。ボクが特攻隊員だったら、この人に「それではお母さん、行って参ります。さようなら」と挨拶をして出撃しただろう。
〇知覧で特攻隊員たちと会った話の報告をしたら、何やら肩の荷が下りた思いがする。
ボクは話に聞く・特攻の母「鳥濱トミ」さんの姿を、ここで初めて写真で見た。その笑顔は、観世音菩薩のようだと感じた。ボクが特攻隊員だったら、この人に「それではお母さん、行って参ります。さようなら」と挨拶をして出撃しただろう。
鳥濱トメさんの語り残した話。「隊員の人達の多くは、戦争をしてはならない、平和な日本であるように、ということを言っていました。そして、そのことをできるだけ多くの人々に伝えてほしいとも言っていたのです。みんないい人達でした。みんな極楽に行く人達でしたから、とてもやさしいんです。全部わたしの子供にしたい思いでした。自分の母の代わりになってくれとほとんどの隊員の人達が言いました。長野県の下平正人さんも、「おかあさんと呼ばせてくれ」と言っていました。当時十六歳だったと思います。かわいかったですよ。」〇知覧で特攻隊員たちと会った話の報告をしたら、何やら肩の荷が下りた思いがする。
〇「知覧特攻平和会館」
〇特攻観音堂の横に目指す「知覧特攻平和会館」があった。会館の前に長いエントランス道がある。
「平和の母」像「知覧特攻平和会館」
若き特攻隊員の英霊コーナー。ただ一人の隊員も掲示から漏らされていない。この会館は、祖国のために若い命を捧げて勇敢に散って逝った特攻隊員の英霊に対し・誠の哀悼を捧げるためだけに設立されている。皇国史観や安っぽい反戦思想など全く関係ない。
↓陸軍三式戦闘機「飛燕」
↓陸軍四式戦闘機「疾風(はやて)」
〇以下の写真は、上掲の本に載っていた。
↓海底から引き揚げられた零戦(ゼロ戦)。操縦席から後ろが失われている。多分、海中に墜落した時既にそのような姿になっていたんだろう。
ゼロ戦を後方から見ている。
↓子犬を抱いた特攻隊員。
疾風
剣
屠竜
99式高等練習機
97式戦闘機
↓出撃20分前の腹ごしらえ。
↓出撃寸前愛機を見守る。
↓別れの盃
敵艦突入
炎上する米軍空母
整備兵・女子挺身隊員と
基地近くの子供たちと遊ぶ
子供たちと隊員
三角兵舎内で食事をする
見送りの接待にくつろぐ隊員
桜の小枝を振って見送る知覧高女生たち
屋根の上から機影が消えるまで手を振る知覧高女生
第一特別振武隊(飛行第101戦隊)発進
別れの盃
訣別
出撃準備中の一式戦闘機・隼(第19振武隊・林少尉以下4機)
99式襲撃/軍偵察機
↓日の丸の鉢巻を受ける隊員
第111振武隊隊員一同
〇8/15(木)鹿児島県南九州市知覧町「特攻平和観音堂」
〇行く先の正面が「特攻平和観音堂」だと知らずに長い参道を歩いて行くと、一式戦闘機・隼が展示してあった。
若い特攻隊員の像があった。台座に「とこしえに」と書いてある。特攻隊員の像の道を挟んだ向かいに・母の像が立っている。台座の脇に「やすらかに」と書いた石が添えられている。
「大刀洗陸軍飛行学校・知覧教育隊」・右、「第四〇教育飛行隊・西部123部隊」・左の門柱が保存されている。
参道
「特攻平和観音堂」があった。知らなかった。お参りした。
観音堂・本尊
観音堂の横に「三角兵舎」があった。
「三角兵舎は特攻隊員の宿舎でありました。敵の目を欺くため、松林の中に半地下壕をつくり、屋根には杉の幼木をかぶせ擬装してありました。各地から集まった隊員は二~三日後には雲のかなた沖縄の空に散華されました。出撃の前夜は、この三角兵舎で壮行会が催され、酒を酌み交わしながら隊歌をうたい、薄暗い裸電球の下で遺書を書き、また別れの手紙をしたためて、出撃して征ったのです。ここに三角兵舎を復元し当時をしのぶよすがとするものであります」