この通信が・今年最後のブログになる。そう思うとどうしても送信せねばという気持になって、電波の飛ぶ道の駅を探してここまで来た。ここは、清水市から身延街道に入ってやがて身延山に近づこうという地点。道の駅「とみざわ」という。前に韮崎から南下してこの道の駅で電波を飛ばしてみた時は不通だった。数年経つと電波事情が改善される。競争社会の利点。パソコンを開いた途端、もう一杯飲んでしまったので・今夜はここで泊まることに確定。大晦日の夜は・ボク独りで送ることになる。何をするかというと、先ず・今年最後のブログ記事を書く。これは必ず実行する。終わったら、本を読む。文庫本なので活字が細かくて難儀する。虫メガネを用意してるが・使い難い。今・手がけているのは、島崎藤村の「夜明け前」。これが意外と面白い。旅の成果で、馬篭・妻籠などの地理に明るくなっているので(馬篭峠も信濃美濃国境の新茶屋・芭蕉句碑もこの足で踏んだ)・読んでいてリアリティがある。文庫本に読み疲れたら、気晴らしに・さっきコンビニで買ってきた週刊新潮・新年特大号を併せ読む。交互に読むと・疲れがとれる。それから折を見て・今日撮ったデジカメ写真の整理をパソコンでする。SDカードを空にするのが目的。最後は、FBで・娘や甥っ子たちの記事を点検する。この作業が結構楽しい。記事がないと・寂しい。
さて、今日の探訪報告。
〇今日も快晴・温暖。昨夜の宿泊地の渥美半島中程の田原市から豊橋を通過して浜名湖の北・三ケ日に入る。ここで「浜名惣社神明宮・本殿」を探訪。重要文化財。これが、古代の社はかくありなんと思える素朴な姿で小山の上に鎮座していたから・嬉しい。今日の幕開けは清々しい気持。
〇次に「小夜の中山」を探訪するつもりが、掛川の街に入り込み、つい「掛川城」を訪れた。山内一豊の出世城。年末休暇に入っていて、天守閣や宮殿に入ることはできなかったが、別に大した問題じゃない。
〇「小夜の中山」探訪が・ボクにとっては最重要課題。東海道・三大難所の一つの峠。西行が訪れて歌を詠んでいる。二十代に歌枕を訪ねて漂泊の旅で奥州を訪れる際に越えて行き、六十九歳で東大寺大仏建立勧進のため平泉に向かう途中に再度越えている。その時詠んだ歌が新古今集に載っている。「歳たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山」。この歌枕を探訪し・西行を身近に感じられることが、ボクには何よりワクワクする。しかし・カーナビ情報は得られない。地図を眺めてこの道筋と見当を付けて走り出したが、見当違い。とんでもない山中に嵌り込んだ。旧・東海道筋でなければならないのに。行きつ戻りつ・四苦八苦の末に旧東海道の細道に入り込み・峠に辿り着いた。西行の歌碑をこの目にしたときは、嬉しさで目が潤みそうになった。小夜の中山・子泣き石伝説の丸石にも遭った。それが、あっちにもこっちにもある。伝説とはそういうものか。
〇本懐を遂げて、大井川を渡り・島田市の「智万寺」へ。本堂が重要文化財。これがまた・とんでもない山奥深くに立地する古刹。天台宗。本尊の千手観音像も重要文化財だが、秘仏。それでも、寺の紹介本を¥1,000で購入し、その中で秘仏に逢えるので・御満悦。本堂はデカイ。それが茅葺なので・15年目には葺き替える必要がある。大変な物入り。あの山中では檀家もあるまい。費用の調達はどうしているんだろうか。不思議だ。
〇今日の最後は、静岡市内の「登呂遺跡」。16:00に到着。前回は、閉門時刻の17:00ぎりぎりに着いて・駐車場に入るのを断られた。今日は大晦日なので・役所仕事は休みに入っているんではないかと危惧しながら向かったんだが、案の定・年末年始はきっちり休むんだと<`ヘ´>。駐車場の出入口の前にセレナを停めて、登呂遺跡の見分に赴いた。パトカーに来られたら駐車違反を取られそうで、焦って遺跡までの往復をしたら・心臓にひどく応えた。胸が苦しくなって、暫し立ち止まって心臓の様子を見た。足を停めて動かずにいたら、楽になった。旅はもう終わりかもしれないなぁ。
〇今夜は道の駅「とみざわ」でゆっくり過ごし、明朝早くに身延街道を北上して南アルプス市から自動車道に入り、韮崎から中央自動車に乗り換えて・岡谷で長野自動車道に入り、松本ICで下りて・阿房トンネルを抜けて平湯に出、旧上宝村経由で富山に出て・七尾に戻って来ようと思う。七尾に戻って・とにかく薬を手にする。それから正月をどう過ごすか、考えてみないといけない。女房は二日に帰って来るそう。問題は・それまでの時間。
〇あっ、皆さん・好い年をお迎え下さい!(^^)!新年・元日の挨拶は・七尾で出来るようにします。元日に七尾に居るのは、五・六年振りかなぁf(^^ゞ。(^.^)/~~~
2013年12月31日火曜日
2013年12月30日月曜日
〇12-30(月)快晴・温暖。愛知県豊川市「豊川稲荷」、同市「三明寺」、同市「財貨寺」、豊橋市「豊橋ハリストス正教会」、静岡県湖西市「本興寺」
〇東海道は快晴で温暖。旅人には最高の日。北陸は雪だろうか。いよいよ今年も煮詰まって来た。煮詰まって・エキスが残る人と・何も残らない人がいる。ボクに残ったモノは、旅の記録と若干の負債。絵はほとんど残らなかった。来年は・絵を残す。仏像画も描いてみよう。
〇本日の探訪初めは、豊川稲荷にした。豊川稲荷には、既に二度参っているが、写真は好いのが残っていない。一度目は家族旅行で・子供達が小さくて境内を経巡る旅ではなかった。二度目は女房と二人・夏の暑い盛りに訪れて氷水を食べた記憶があるが、やはり中途半端な探訪。今度こそ独りで存分に歩き回って・完全保存版の写真集を残そうという魂胆。堂塔伽藍はほぼ完璧に撮影。初詣を目がけて香具師の出店準備が大わらわで・写真に香具師の店が大写りで・堂塔伽藍を写したのか香具師の店を写したのか分らなくなったが、絵としては賑やな雰囲気が出てかえって好いんじゃないか。ところで豊川稲荷は、純然たる禅宗寺院であることは御存知だろうか。伏見稲荷の様に四柱の神を祀っている神社ではない。ダキニ天という、その筋の御経に現れる「天」(毘沙門天の様な仏教の守護神)を祀っている。インド・ヒンドゥー教に本籍があり・その性格は怪しい神。ダキニテンが稲荷神と同一視される経緯は、日本人の思想的好い加減さを介在させなければ了解不能。要するに神仏習合の一種。岡山市の「最上(さいじょう)稲荷」も仏教的稲荷信仰。豊川稲荷は寺名は「妙厳寺」、曹洞宗の寺。
〇豊川市内「三明寺」は、豊川稲荷から近い。開放的で小さい寺院。ここの「三重塔」が重要文化財。本堂内の「宮殿(厨子)」も重要文化財。
〇さらに豊川市郊外の山中の「財貨寺」に脚を伸ばす。「仁王門」「仁王像」と本堂「宮殿」が重要文化財。山中深くに立派な堂宇が存在するのには驚かされる。さすが名前に値する。
〇豊橋市の重要文化財建物は、意外なことに一つしかない。それが、「豊橋ハリストス正教会」聖堂。豊橋市と豊川市は隣接して極近い。豊川市山中の財貨寺から豊橋市街地の正教会まで一瀉千里。小さい聖堂。ロシア正教会だろう。眺めているうちに味が出てきた。普通・聖堂内にも入れるもんだが、あいにく鍵が掛かっていた。神父さんが外出中か。
〇夕暮れまでに未だ時間が余っていたので、静岡県湖西市の「本興寺」を訪ねた。日蓮宗。茅葺本堂が重要文化財。堂塔伽藍が立ち並ぶ立派な古刹。小堀遠州作庭と伝わる庭も拝観。夕暮れ時で・もう雨戸を締め切ってあったが、御婆さんが親切にも一部を開けて拝観させてくれた。
〇今夜の野営地としてカーナビが示したのが・浜名湖西方の「道の駅・潮見坂」。これが、とんでもない道案内で、ボクはここに泊まることを拒否。結局・渥美半島中ほどの「道の駅・田原メックンハウス」まで来て泊まることに。以前・渥美半島を周遊した時に寄ったことがあり、市の中心部で電波が間違いなく飛ぶことを見分してあった。
〇本日の探訪初めは、豊川稲荷にした。豊川稲荷には、既に二度参っているが、写真は好いのが残っていない。一度目は家族旅行で・子供達が小さくて境内を経巡る旅ではなかった。二度目は女房と二人・夏の暑い盛りに訪れて氷水を食べた記憶があるが、やはり中途半端な探訪。今度こそ独りで存分に歩き回って・完全保存版の写真集を残そうという魂胆。堂塔伽藍はほぼ完璧に撮影。初詣を目がけて香具師の出店準備が大わらわで・写真に香具師の店が大写りで・堂塔伽藍を写したのか香具師の店を写したのか分らなくなったが、絵としては賑やな雰囲気が出てかえって好いんじゃないか。ところで豊川稲荷は、純然たる禅宗寺院であることは御存知だろうか。伏見稲荷の様に四柱の神を祀っている神社ではない。ダキニ天という、その筋の御経に現れる「天」(毘沙門天の様な仏教の守護神)を祀っている。インド・ヒンドゥー教に本籍があり・その性格は怪しい神。ダキニテンが稲荷神と同一視される経緯は、日本人の思想的好い加減さを介在させなければ了解不能。要するに神仏習合の一種。岡山市の「最上(さいじょう)稲荷」も仏教的稲荷信仰。豊川稲荷は寺名は「妙厳寺」、曹洞宗の寺。
〇豊川市内「三明寺」は、豊川稲荷から近い。開放的で小さい寺院。ここの「三重塔」が重要文化財。本堂内の「宮殿(厨子)」も重要文化財。
〇さらに豊川市郊外の山中の「財貨寺」に脚を伸ばす。「仁王門」「仁王像」と本堂「宮殿」が重要文化財。山中深くに立派な堂宇が存在するのには驚かされる。さすが名前に値する。
〇豊橋市の重要文化財建物は、意外なことに一つしかない。それが、「豊橋ハリストス正教会」聖堂。豊橋市と豊川市は隣接して極近い。豊川市山中の財貨寺から豊橋市街地の正教会まで一瀉千里。小さい聖堂。ロシア正教会だろう。眺めているうちに味が出てきた。普通・聖堂内にも入れるもんだが、あいにく鍵が掛かっていた。神父さんが外出中か。
〇夕暮れまでに未だ時間が余っていたので、静岡県湖西市の「本興寺」を訪ねた。日蓮宗。茅葺本堂が重要文化財。堂塔伽藍が立ち並ぶ立派な古刹。小堀遠州作庭と伝わる庭も拝観。夕暮れ時で・もう雨戸を締め切ってあったが、御婆さんが親切にも一部を開けて拝観させてくれた。
〇今夜の野営地としてカーナビが示したのが・浜名湖西方の「道の駅・潮見坂」。これが、とんでもない道案内で、ボクはここに泊まることを拒否。結局・渥美半島中ほどの「道の駅・田原メックンハウス」まで来て泊まることに。以前・渥美半島を周遊した時に寄ったことがあり、市の中心部で電波が間違いなく飛ぶことを見分してあった。
2013年12月29日日曜日
〇12-29(日)名古屋市「荒子観音寺」、岡崎市「天恩寺」、同「旧額田郡公会堂&物産陳列所」、同「六所神社」、同「信光明寺」、同「妙源寺」で重文探訪。
道の駅・立田ふれあいの里で07:30目覚め。すっきりしている。
「荒子観音」の重要文化財「多宝塔」を目指して出発。昨夕・暮れて幕引きとなった探訪のリベンジ。西名阪・都市高速を乗り継いで便利に到着。中川区荒子町。多宝塔は瀟洒。ここの多宝塔も・中層の丸い亀腹の材質が白い石灰ではなくて・木材を深く丸く曲げている。尾張はこんな風か。荒子は、前田利家の実家が領主・土豪をしていた地域。館は、観音寺に近かった。御堂も寄進したそう。発見は、荒子観音寺に・円空仏が無数に残されていること。仁王像も円空作だと知って撮ろうとしたが、仁王門の構造上撮るのが難しい。写真集¥800を買った。
ここから岡崎に飛んだ。名古屋には来ようと思えばいつでも来れるので後回しにすることに。岡崎地域には重要文化財が群を抜いて多い。今秋の岡崎旅行であらかた探訪したつもりだが、なんのナンノ・岡崎は奥が深い。今日で本当にあらかた探訪を済ますことに。
先ずは「天恩寺」へ。岡崎市片寄町、豊川との境界に近い。家康公が長篠の戦に出征するとき・この寺に戦勝祈願したそう。徳川家と縁が深い。「山門」&「仏堂」が重要文化財。山門は杮葺(こけらぶき)のはずが・瓦屋根になっていた。石垣の素材・積み方に独特の情緒がある。
ここから街中に転じて、重文「旧額田郡公会堂」と「同物産陳列所」の見学に。来てみると、公開は廃止されていた。内部が腐朽して危険だそう。ボクにすれば建物が存在し・外周が見れればそれで良かった。まずまずの成果。
直ぐ近くに「六所神社」があった。六柱の祭神を祀っているから「六所神社」なんだが、この名の神社は全国に多数ある。が、祭神はまちまち。しかし・いずれも六柱の神は祀っているだろう。岡崎市明大寺町の「六所神社」には驚かされた。ナント!重要文化財は次の通り。楼門、拝殿・弊殿・本殿、神供所。要するに・境内の殿社が一式すべて重文という訳。近年・大修理を終えたと見え、朱や金箔の色が目にも鮮やか。美しい宮。岡崎地方には力がある。素晴らしい神社が幾つも存在する。伊賀八幡宮、滝山東照宮、そして六所神社。岡崎天満宮も素晴らしそう。明日・探訪してみようかな。
この後また郊外に出て、岡崎市岩津町に重要文化財「信光明寺・観音堂」を探訪。
さらに同大和町に重要文化財「妙源寺・柳堂」を探訪。いずれも美しい御堂だった。
冬至の前後の陽は釣瓶(つるべ)落とし。重要文化財探訪の旅もなかなか思うに任せない。それにしては今日の探訪は比較的順調にいった。六ヶ所廻ったことになる。しかし・凶事が二つも出来(しゅったい)。持参した薬があと三日分しかないことに気が付いた。血液サラサラにする薬と血管拡げて血圧降下させる薬、それに血糖値を下げる薬が切れるゥ。元日には七尾に戻って薬にありつかないと。陽が大きく傾いた頃・生理現象が不調となってエライ目にあった。明日は、豊川・豊橋から浜松方面に出る。
「荒子観音」の重要文化財「多宝塔」を目指して出発。昨夕・暮れて幕引きとなった探訪のリベンジ。西名阪・都市高速を乗り継いで便利に到着。中川区荒子町。多宝塔は瀟洒。ここの多宝塔も・中層の丸い亀腹の材質が白い石灰ではなくて・木材を深く丸く曲げている。尾張はこんな風か。荒子は、前田利家の実家が領主・土豪をしていた地域。館は、観音寺に近かった。御堂も寄進したそう。発見は、荒子観音寺に・円空仏が無数に残されていること。仁王像も円空作だと知って撮ろうとしたが、仁王門の構造上撮るのが難しい。写真集¥800を買った。
ここから岡崎に飛んだ。名古屋には来ようと思えばいつでも来れるので後回しにすることに。岡崎地域には重要文化財が群を抜いて多い。今秋の岡崎旅行であらかた探訪したつもりだが、なんのナンノ・岡崎は奥が深い。今日で本当にあらかた探訪を済ますことに。
先ずは「天恩寺」へ。岡崎市片寄町、豊川との境界に近い。家康公が長篠の戦に出征するとき・この寺に戦勝祈願したそう。徳川家と縁が深い。「山門」&「仏堂」が重要文化財。山門は杮葺(こけらぶき)のはずが・瓦屋根になっていた。石垣の素材・積み方に独特の情緒がある。
ここから街中に転じて、重文「旧額田郡公会堂」と「同物産陳列所」の見学に。来てみると、公開は廃止されていた。内部が腐朽して危険だそう。ボクにすれば建物が存在し・外周が見れればそれで良かった。まずまずの成果。
直ぐ近くに「六所神社」があった。六柱の祭神を祀っているから「六所神社」なんだが、この名の神社は全国に多数ある。が、祭神はまちまち。しかし・いずれも六柱の神は祀っているだろう。岡崎市明大寺町の「六所神社」には驚かされた。ナント!重要文化財は次の通り。楼門、拝殿・弊殿・本殿、神供所。要するに・境内の殿社が一式すべて重文という訳。近年・大修理を終えたと見え、朱や金箔の色が目にも鮮やか。美しい宮。岡崎地方には力がある。素晴らしい神社が幾つも存在する。伊賀八幡宮、滝山東照宮、そして六所神社。岡崎天満宮も素晴らしそう。明日・探訪してみようかな。
この後また郊外に出て、岡崎市岩津町に重要文化財「信光明寺・観音堂」を探訪。
さらに同大和町に重要文化財「妙源寺・柳堂」を探訪。いずれも美しい御堂だった。
冬至の前後の陽は釣瓶(つるべ)落とし。重要文化財探訪の旅もなかなか思うに任せない。それにしては今日の探訪は比較的順調にいった。六ヶ所廻ったことになる。しかし・凶事が二つも出来(しゅったい)。持参した薬があと三日分しかないことに気が付いた。血液サラサラにする薬と血管拡げて血圧降下させる薬、それに血糖値を下げる薬が切れるゥ。元日には七尾に戻って薬にありつかないと。陽が大きく傾いた頃・生理現象が不調となってエライ目にあった。明日は、豊川・豊橋から浜松方面に出る。
2013年12月28日土曜日
〇12-28(土)瀬戸市「定光寺」、多治見市「永保寺」、春日井市「密蔵院」、「名護屋城」
可児市「道の駅・可児ッテ」での目覚めが07:30。しかし出発は何故か09:30。出遅れ。目的地が決まったのは・出発直前。大体・可児市の地理的位置が比定できていないので、目的地が決まる訳がない。犬山市・美濃加茂市・土岐市・可児市などの地理を勉強した。
それで・距離が最短で・重文建造物が幾つもある寺として・瀬戸市の山中にある「定光寺(じょうこうじ)」を選んだ。臨済宗・妙心寺派。この寺の見所は幕末近くの尾張藩主徳川義直公・別名「源敬公(げんけい・こう)・源氏の祖先を敬ったのでこの名がある」の「源敬公廟」があること。この廟、三つの門を肇め・合計七つの建造物がすべて重文。寺の本堂と秘仏・薬師如来像も重文という・なかなか重みのある古刹。本尊は・延命地蔵菩薩。廟に参ってみると・遺憾なことに、獅子の門・竜の門・焼香(祭文)殿・宝(祭器)蔵の四つがこっぽりと覆い屋に囲われて屋根しか見えない。築地塀・唐門・公墓は鑑賞できる。源敬公墓の傍・片側に殉死した九忠臣の墓が並んでいる。前列に直臣(じきしん)の墓、後列には陪臣の墓が五基並んでいる。よっぽど人望のあった殿様か。そう言えば・島崎藤村の「夜明け前」の初めの方に・黒船が来て天下騒擾となり・急ぎ江戸に向かうため馬篭宿を通る尾張藩主の大行列の事が出てくるが、あの藩主が義直公ではなかったか。本堂も国宝級に美しい。訪れて好かった。
次に目指したのが・春日井市の重文「密蔵院・多宝塔」。その道中、多治見市内の大交差点に見覚えがあった。そうだ・ここは「虎渓山・永保寺(えいほうじ)」に行くときに通った交差点だと思ったら、まさにそうで・左折すれば「永保寺」の案内標示が出た。折角来たんだ、拝観しようと・ハンドルを左に切った。「永保寺」訪問はこれで三度目。臨済宗・南禅寺派の修行道場。観音堂と開山堂が国宝で・これがまた素晴らしく美しい御堂。何度見ても飽きない、惚れ惚れする。「永保寺」の紹介は写真に限るが、残念ながら大容量SDに収まってしまった。昨日述べた通り・このSDカードは容量がデカ過ぎて旅に携帯したパソコンの手に負えない。写真の処理は・七尾に戻ってから別のパソコンで。
三番目の目的地は、春日井市の「密蔵院多宝塔・重要文化財」。密蔵院は天台宗の寺。多宝塔は意外に大きくて・独特の形。下層・裳腰部分が一見大き目、中層の亀腹(かめばら)部分(普通は白い石灰で鏡餅風に曲線形に固めてある)が木製で木を曲線形に撓(たわ)めてある。
春日井市のヤマダ電機でデジカメ用SDカードの小容量モノをget。これで・持参してきたパソコンでも画像処理ができるんじゃないか。フィリップス社製・髭剃機三枚刃モノの刃が一枚壊れて難渋していたら、替刃を売っていた。飛び付いて買ったが、4,200円とちょっと高かった。
春日井市から名古屋市内に突入。目指すは「名古屋城」。重文は、門が三つと隅櫓が三つ。大都市の真ん中の探訪は苦手なんだが、近くで重文を・外(ほか)に思い付かないから仕方がない。正門前の駐車場に無事滑り込んだ。到着が15:30。名古屋城の閉門は16:30だという。忙(せわ)しないが仕方がない。本丸は威風堂々としていて絵になる。しかし・重要文化財ではない。多分・鉄筋コンクリート造。金のシャチホコが夕陽に輝いていた。石垣が見事。これは築造当時のモノだろう。家康から天下普請を命ぜられた西国大名たちのマークが・各普請持ち場毎にそこの石に刻されているそう。城内はあちこち大工事中で重文・隅櫓は一つ見れなかった。門も一つ、これは時間不足で見るのを省いた。宮殿を造っている。駐車場が便利だったから・また来るかも。
最後に「荒子観音多宝塔・重文」を拝観して今日の終わりにしようと思ったら、向かう途中で日が暮れた。前田利家・犬千代の実家は、ここ荒子の領主だった。
今夜の宿泊地の選定が難問だった。検討の結果、方向は真逆だが、尾西・木曾三川の近くの道の駅「立田ふれあいの里」にした。安全に速く来れる。電波も飛ぶ。この道の駅、今回で三度目(四度目かな?)なので事情はよく分っている。その道の駅でここまで書いて・窓の外を見たら、冗談じゃない・雪が舞っている。今夜は冷えそう。北陸は大雪じゃないか。
それで・距離が最短で・重文建造物が幾つもある寺として・瀬戸市の山中にある「定光寺(じょうこうじ)」を選んだ。臨済宗・妙心寺派。この寺の見所は幕末近くの尾張藩主徳川義直公・別名「源敬公(げんけい・こう)・源氏の祖先を敬ったのでこの名がある」の「源敬公廟」があること。この廟、三つの門を肇め・合計七つの建造物がすべて重文。寺の本堂と秘仏・薬師如来像も重文という・なかなか重みのある古刹。本尊は・延命地蔵菩薩。廟に参ってみると・遺憾なことに、獅子の門・竜の門・焼香(祭文)殿・宝(祭器)蔵の四つがこっぽりと覆い屋に囲われて屋根しか見えない。築地塀・唐門・公墓は鑑賞できる。源敬公墓の傍・片側に殉死した九忠臣の墓が並んでいる。前列に直臣(じきしん)の墓、後列には陪臣の墓が五基並んでいる。よっぽど人望のあった殿様か。そう言えば・島崎藤村の「夜明け前」の初めの方に・黒船が来て天下騒擾となり・急ぎ江戸に向かうため馬篭宿を通る尾張藩主の大行列の事が出てくるが、あの藩主が義直公ではなかったか。本堂も国宝級に美しい。訪れて好かった。
次に目指したのが・春日井市の重文「密蔵院・多宝塔」。その道中、多治見市内の大交差点に見覚えがあった。そうだ・ここは「虎渓山・永保寺(えいほうじ)」に行くときに通った交差点だと思ったら、まさにそうで・左折すれば「永保寺」の案内標示が出た。折角来たんだ、拝観しようと・ハンドルを左に切った。「永保寺」訪問はこれで三度目。臨済宗・南禅寺派の修行道場。観音堂と開山堂が国宝で・これがまた素晴らしく美しい御堂。何度見ても飽きない、惚れ惚れする。「永保寺」の紹介は写真に限るが、残念ながら大容量SDに収まってしまった。昨日述べた通り・このSDカードは容量がデカ過ぎて旅に携帯したパソコンの手に負えない。写真の処理は・七尾に戻ってから別のパソコンで。
三番目の目的地は、春日井市の「密蔵院多宝塔・重要文化財」。密蔵院は天台宗の寺。多宝塔は意外に大きくて・独特の形。下層・裳腰部分が一見大き目、中層の亀腹(かめばら)部分(普通は白い石灰で鏡餅風に曲線形に固めてある)が木製で木を曲線形に撓(たわ)めてある。
春日井市のヤマダ電機でデジカメ用SDカードの小容量モノをget。これで・持参してきたパソコンでも画像処理ができるんじゃないか。フィリップス社製・髭剃機三枚刃モノの刃が一枚壊れて難渋していたら、替刃を売っていた。飛び付いて買ったが、4,200円とちょっと高かった。
春日井市から名古屋市内に突入。目指すは「名古屋城」。重文は、門が三つと隅櫓が三つ。大都市の真ん中の探訪は苦手なんだが、近くで重文を・外(ほか)に思い付かないから仕方がない。正門前の駐車場に無事滑り込んだ。到着が15:30。名古屋城の閉門は16:30だという。忙(せわ)しないが仕方がない。本丸は威風堂々としていて絵になる。しかし・重要文化財ではない。多分・鉄筋コンクリート造。金のシャチホコが夕陽に輝いていた。石垣が見事。これは築造当時のモノだろう。家康から天下普請を命ぜられた西国大名たちのマークが・各普請持ち場毎にそこの石に刻されているそう。城内はあちこち大工事中で重文・隅櫓は一つ見れなかった。門も一つ、これは時間不足で見るのを省いた。宮殿を造っている。駐車場が便利だったから・また来るかも。
最後に「荒子観音多宝塔・重文」を拝観して今日の終わりにしようと思ったら、向かう途中で日が暮れた。前田利家・犬千代の実家は、ここ荒子の領主だった。
今夜の宿泊地の選定が難問だった。検討の結果、方向は真逆だが、尾西・木曾三川の近くの道の駅「立田ふれあいの里」にした。安全に速く来れる。電波も飛ぶ。この道の駅、今回で三度目(四度目かな?)なので事情はよく分っている。その道の駅でここまで書いて・窓の外を見たら、冗談じゃない・雪が舞っている。今夜は冷えそう。北陸は大雪じゃないか。
2013年12月27日金曜日
〇12-27(金)岐阜県犬山市「博物館明治村」探訪。
朝、目覚めたら09:30過ぎだったのには驚いた。SAのコンビニでカップヌードルを買い・備付けの湯沸かしの湯を注いで食した。明治村に入園したのは11:00。1時間の遅れ。閉園16:00までに全部見回るのは困難だと覚悟。しかも途中で雨が降り出した。余っぽど切り上げようかと思ったが、雨中の探訪を敢行。そのうち雨が上がった。蛍の光の音楽が流れる中、最後の建物見分を完了。今日は途中から心臓も苦しくなって閉口した。ボクは心臓と、不安定型狭心症になって以来10年間、一進一退の攻防を繰り広げてきたから敵情はよく分っている。ボクは、自分の心臓を観察し・対話しながらやってきた。最近どうも・狭心症はまた不安定化している。「不安定型狭心症」は最も危険な症状。本当なら入院し・治療を受けているところ。だがボクは、この10年間繰り返してきた入院・治療をもう繰り返したくない。ボクがこんな気持になったのは・三人娘がそれぞれ自立して生きて行ってくれていることが大きい。十年前はみんな、学生or生徒だったから・ボクは必死で入院・治療に取り組んだ。入院回数はやがて20回に近いんじゃないか。それが・三人それぞれに自立して生きていけるようになっているとなれば・前提が違う。ボクがいつどのように死ぬのか――その選択権は、今やボクの掌中にある。旅の途中で路傍に倒れて死ぬ――これさえもボクらしい死に方の一つとして是認され得る境遇にある。これからもダラダラと入院・治療を受け続けるのは、大いに不自由・不都合で、ボクはもう半分嫌気がさしている。旅の方も・もう十分走り回って見るべきほどのモノはあらかた見たから、こちらもそろそろ卒業にしてもいいかな。絵を描き・本を読み・文を書く――これが・ボクの最後に取り組むことだろう。いつの間にか話が飛躍、というかねじ曲がっていた。明治村を一所懸命に歩き回った話をしようとしていた。数ある建物の中に・重要文化財建造物が十件あるということだったが、どれがそうか区別がつかなかった。それでパソコンで画像を見ながら整理しようとしたら、SDカードの容量が大き過ぎて(多分これが理由で)パソコンがカードを認識できない。これはこれで一大事。カードからデータを切り取って移せず・満杯で、明日から撮影画像を収めるカードがない。ヤマダ電機を見つけることが明日最初の仕事になった。買うのは容量の小さ目のSDカードでないと、旅に携帯した古いパソコンでは間尺に合わないことを忘れないように。Windows
mail のダイアルアップ接続の方も、送受信量が小さ過ぎると見えて便秘のような症状を起こし・機能が麻痺。誰かとんでもないデータ量の送信をしたのかぁ〈`ヘ´>かくして目下・ブログに写真を掲載できず、メールは便秘で受信できずという・情けなくて楽しみの減殺された流浪生活を送っている。なんか暗くて愚痴っぽいことばっかり書いてる気がするなぁ。やっぱり心臓の不調が暗雲の様に・ボクの心身の全体を知らぬ間に不気味に支配してるということかf(*_*;そう言えば、最近悪夢ばかり見る。
ここは岐阜県可児市の道の駅「可児ッテ」。今夜はここに泊まる。
ここは岐阜県可児市の道の駅「可児ッテ」。今夜はここに泊まる。
2013年12月26日木曜日
〇12/26(木)北陸東海自動車道・関SAにて。昨夜読み終えた黒岩重吾著「北風に立つ」について。
〇ここは、岐阜県・関SA。今夜はここで宿泊。明朝はここから犬山市の「明治村」を目指す。重要文化財建物十棟をはじめ・見るべき建造物が無数に移築されているというから、凄い。多分脚が棒になる、されど大半を見残す。後日の楽しみが残る。それらの建物を移築し保存した人達の志は立派・素敵。みんなで行って・入場料を払って、事業を支えましょう。
〇みなさん、黒岩重吾という作家がいて、古代日本史を種にして長編小説を何篇か残して逝ったのを覚えていますかぁ。ボクは先日、この作家の「天の川の太陽」(壬申の乱をテーマにした大長編)を読み、昨夜「北風に立つ」(継体天皇が大王になる経緯を書いた長編)を読了しました。その読書感想文。先週末、ボクは「司馬遼太郎記念館」を探訪してきましたが、司馬遼太郎も歴史小説が好きで大いに・というか超人的に書いた。司馬遼太郎は文才が素晴らしかった。その文章は始めから終りまで筋肉質に躍動し続けて読者を飽きさせない。それでいて読者に迎合するところが蔭もない。大作家。それに比べるのは酷だが、間が悪いというか、較べられる廻り合わせになったんだから仕方がない。黒岩重吾の文章は実に鈍重。文才不足。躍動感がなく・面白味がない。ボクは耐え忍んで読み切ったが、大概途中で投げ出すだろう。ワクワク感がない。この作家の著作はそのうち消え去るだろう。他方・司馬遼太郎の本は、日本の歴史小説の古典として生き永らえる。黒岩重吾さん、こんな感想を書いてスイマセンm(__)m
〇みなさん、黒岩重吾という作家がいて、古代日本史を種にして長編小説を何篇か残して逝ったのを覚えていますかぁ。ボクは先日、この作家の「天の川の太陽」(壬申の乱をテーマにした大長編)を読み、昨夜「北風に立つ」(継体天皇が大王になる経緯を書いた長編)を読了しました。その読書感想文。先週末、ボクは「司馬遼太郎記念館」を探訪してきましたが、司馬遼太郎も歴史小説が好きで大いに・というか超人的に書いた。司馬遼太郎は文才が素晴らしかった。その文章は始めから終りまで筋肉質に躍動し続けて読者を飽きさせない。それでいて読者に迎合するところが蔭もない。大作家。それに比べるのは酷だが、間が悪いというか、較べられる廻り合わせになったんだから仕方がない。黒岩重吾の文章は実に鈍重。文才不足。躍動感がなく・面白味がない。ボクは耐え忍んで読み切ったが、大概途中で投げ出すだろう。ワクワク感がない。この作家の著作はそのうち消え去るだろう。他方・司馬遼太郎の本は、日本の歴史小説の古典として生き永らえる。黒岩重吾さん、こんな感想を書いてスイマセンm(__)m
〇12-26(木)今日から年末の流浪の旅に。行く先は未だ決まっていない。
行く先は決まっていないが、とにかく今日から旅に出ます。流浪の旅です。四国・九州は旅飽きたので、行くとしたら山陽道か東海道を虱潰(しらみつぶ)しに重文建造物を探訪しながら行くことになろうと思います。日本海側は、天候が悪いのでまかり間違っても行きません。愛知県犬山市に「明治村」があり・そこに重文建物が十棟あるそう。広大な敷地に見るべきほどの建造物が無数にあるそうで10:00~16:00まで一日を充てても足りなさそう。明日はここを探訪しようかなと密かに思っている。愛知県尾西から始めて東へ東へと辿り、年末年始に東京周辺をうろつく‥ということになるのかなぁ。とにかく東海道は年末年始・天気が悪かろうはずがない。
2013年12月25日水曜日
〇12/21(土)東大寺ミュージアム&法華堂の仏像たち
〇「東大寺ミュージアム」
↓誕生釈迦仏像・金銅造・国宝。「天上天下、唯我独尊」
ミュージアムの主となった千手観音立像。四月堂という狭い暗い空間から・いきなり脚光を浴びる大舞台に立ったが、堂々と主役を張っている。役不足なほど。これで重要文化財。いずれ国宝になる。木造。仏師も制作時代も分っていない。木造だから平安時代に入ってからの制作だというのが定説だが、梅原猛は異説を主張している。奈良時代に行基・技能集団によって制作されたという。このように様式を無視した作風は行基仏と見るしかないという。↓千手観音立像・木造の向かって右側に立っているのが日光菩薩立像・塑像・国宝、左側に立っているのが月光菩薩立像・塑像・国宝。端正な日光・月光菩薩像と破天荒な千手観音像との対照的な取り合わせが絶妙。絵になっている。
↓月光菩薩像の外側に立つ持国天立像・木造・重要文化財。この像は(次の多聞天像と共に)元・天理市所在の永久寺の所蔵物だったが、明治維新時の廃仏毀釈の嵐の中で廃寺となった時、東大寺・二月堂に寄進されたという。
↓日光菩薩像の外側に立つ多聞天(毘沙門天)立像・木造・重要文化財。元・永久寺にあったことと・東大寺二月堂に寄進されたことは前述。
↓釈迦如来坐像・木造・重要文化財。千手観音・日光月光両菩薩像の向かいに展示されている。
〇法華堂
↓法華堂内陣・新配置図。法華堂に安置されている十体の仏像全部が、奈良時代に制作され・国宝。執金剛神像だけが秘仏で・塑像で・170.4cmの等身像だが、他の九体はすべて乾漆像で・300~400cmの巨体。その巨大仏が内陣にヌーっと立ち並んでいる雰囲気は異様なものがある。
↓不空ケン索観音菩薩立像
↓内陣
↓執金剛神(しゅうこんごうしん)立像。秘仏、12月16日だけ開扉されるそう。
2013年12月24日火曜日
〇12-21(土)奈良市「春日大社」。初詣・準備中。
「春日大社」←リンク
↓裏参道入口にある「水谷(みずや)神社」
裏参道の森
↓裏参道
↓藤の巨木
↓一言主神社
↓祈祷所
桂昌院殿
重要文化財・竃殿
重要文化財・酒殿
↓以下、重要文化財の門が三つ並んでいる。向かって左から「内侍門(ないしもん)」「清浄門」「慶賀門」。この門は「内侍門」。この門は、内侍の参入口として使用されてきた。
内侍門から覗くと多賀神社が見える。
↓これは真ん中の「清浄門」。僧正門とも呼ばれ、僧侶の参入口として用いられた。
「清浄門」を覗く。
↓「慶賀門」。藤原氏一門の参入口として用いられた。天井に格組(ごうぐみ)天井を張り・他の二門よりも立派な構造になっている。
↓「慶賀門」を潜ると、左に西の回廊、右に直合(なおらい)殿があり、軒下に金銅燈籠が見事な列を成して垂れている。灯が入ったら・この世の事とは思えない風情があろう。
↓左・西の回廊、右・直合殿。
↓「慶賀門」を潜って振り返る。門の傍に藤棚がある。藤原氏一門の用いる門だから・藤棚が設えられているのか。
↓弊殿・舞殿。この奥に朱塗りの神門がある。
↓神門。神門を潜ると、本殿が四棟・横に並んで建っている。祭神は、タケミカヅチノ神(鹿島神宮の神)・フツヌシノ神(香取神宮の神)・アメノコヤネノ神・ヒメノ神(コヤネノ神の妻)の四柱。アメノコヤネノ神とヒメノ神は、河内国・枚方神社(元春日)から勧請された。
↓左・直合殿。金銅燈籠が垂れている。右・神門から続く回廊。
楼門・南門
↓楼門前から表参道を見る。燈籠の連なりが印象的。右の建物は・着到殿。
↓以下、表参道。二の鳥居が見える。
↓参道を振り返る。突き当たって左すれば楼門、右すれば若宮神社・夫婦大国神社に至る。石燈籠の中・左側に建つ建物は着到殿。
二の鳥居
↓万葉植物園・入口
↓表参道の森の果てる辺りに魁偉な姿の大木が立ち並ぶ。
〇一の鳥居(太い巨木の朱塗りの鳥居)は遥か彼方に立つ。
↓裏参道入口にある「水谷(みずや)神社」
裏参道の森
↓裏参道
↓藤の巨木
↓一言主神社
↓祈祷所
桂昌院殿
重要文化財・竃殿
重要文化財・酒殿
↓以下、重要文化財の門が三つ並んでいる。向かって左から「内侍門(ないしもん)」「清浄門」「慶賀門」。この門は「内侍門」。この門は、内侍の参入口として使用されてきた。
内侍門から覗くと多賀神社が見える。
↓これは真ん中の「清浄門」。僧正門とも呼ばれ、僧侶の参入口として用いられた。
「清浄門」を覗く。
↓「慶賀門」。藤原氏一門の参入口として用いられた。天井に格組(ごうぐみ)天井を張り・他の二門よりも立派な構造になっている。
↓「慶賀門」を潜ると、左に西の回廊、右に直合(なおらい)殿があり、軒下に金銅燈籠が見事な列を成して垂れている。灯が入ったら・この世の事とは思えない風情があろう。
↓左・西の回廊、右・直合殿。
↓「慶賀門」を潜って振り返る。門の傍に藤棚がある。藤原氏一門の用いる門だから・藤棚が設えられているのか。
↓弊殿・舞殿。この奥に朱塗りの神門がある。
↓神門。神門を潜ると、本殿が四棟・横に並んで建っている。祭神は、タケミカヅチノ神(鹿島神宮の神)・フツヌシノ神(香取神宮の神)・アメノコヤネノ神・ヒメノ神(コヤネノ神の妻)の四柱。アメノコヤネノ神とヒメノ神は、河内国・枚方神社(元春日)から勧請された。
↓左・直合殿。金銅燈籠が垂れている。右・神門から続く回廊。
↓楼門・南門
↓楼門前の石燈籠。楼門・南門
↓楼門前から表参道を見る。燈籠の連なりが印象的。右の建物は・着到殿。
↓以下、表参道。二の鳥居が見える。
↓参道を振り返る。突き当たって左すれば楼門、右すれば若宮神社・夫婦大国神社に至る。石燈籠の中・左側に建つ建物は着到殿。
二の鳥居
↓万葉植物園・入口
↓表参道の森の果てる辺りに魁偉な姿の大木が立ち並ぶ。
〇一の鳥居(太い巨木の朱塗りの鳥居)は遥か彼方に立つ。