2014年10月29日水曜日

〇新潟県東蒲原郡阿賀町・道の駅三川「平等寺・薬師堂」重要文化財

〇「将軍杉」の向かいに「平等寺」がある。
↓赤屋根は本坊。現在無住の感じ。
↓薬師堂。重要文化財




↓「平等寺薬師堂 平等寺は、平安時代の末に、武勇で知られた陸奥鎮守府将軍平維茂(これもち)が創立したと伝えられている曹洞宗の名刹。現存の薬師堂は、永正16年(1519)に建てられた。‥‥堂内の柱や壁板の所々に、元亀、天正~元和にわたる参詣者の落書きがあり、当時の世相や信仰をしのばせるが、なかでも天正6年(1578)「御館(おたて)の乱」のときに越後へ進攻し、敗退してこの寺に逃げ込んだ会津芦名氏の将兵たちの連名の墨書は、当時の会津と越後の緊迫した動勢を知る上に貴重な資料。」

2014年10月28日火曜日

〇8/16(土) 新潟県東蒲原郡阿賀町・道の駅三川で出逢った「将軍杉」

〇宮城県名取市「実方中将の墓」を参拝した後、夕闇が迫る中、家路を辿った。福島県二本松に戻りそこから西進して会津若松を目指した。その夜は会津若松近辺の道の駅で泊り、翌朝会津街道を西へ西へと走って新潟県に入ったところで「将軍杉」に出逢った。道の駅・三川で一服した時のこと。
将軍杉」←リンク


↓「天然記念物・将軍杉 我が国における日本一のスギである。推定樹齢約千四00年、幹のまわりは十九メートル三十一、樹高約四十メートルに達する。根元の近くから六本の大支幹にわかれているが中央の一本は昭和三十六年秋の第二室戸台風のため折損した。樹下の「余五将軍維茂墓碑」は、この地に晩年を送ったとつたえる陸奥鎮守府将軍平維茂の業績をしのび寛文八年会津藩主保科正之が建てたもので将軍杉の名もこれに起因する。‥‥」

↓中央の主幹が第二室戸台風で折れてしまった。



↑左端に見える石碑が、保科正之の建てた将軍・平維茂の墓碑。表面が風化して刻字が全く読み取れない。





〇10/26(日) 信州・戸隠連峰。シャトルバスで鏡池へ

〇以前は、戸隠鏡池に紅葉の最盛期でもセレナで乗り付けて絵を描いていた。それが、鏡池の絶景がメディアで報道されるようになって大渋滞を来たし、十月下旬の週末はシャトルバスに乗り換えなければ入れなくなった。
↓戸隠スキー場のシャトルバス発着場。600円、一日乗り降り自由。
 ↓鏡池。西岳連峰は逆光。
 西岳連峰

 ↓戸隠連峰。半逆光。



 ↓戸隠スキー場から中央に「高妻山・左」「乙妻山・右」が見える。左端は、戸隠連峰の端。

〇10/26(日) 信州・白馬連峰、仲秋

〇糸魚川から小谷(おたり)村を通って白馬村にさしかかるといきなりこの光景が眼前に開ける。左・八方尾根、右・天狗尾根と白馬鑓(やり)
 ↓中央・天狗尾根、右に白馬鑓・杓子岳。手前・岩岳スキー場。
 ↓八方尾根。大スキー場がある。

 ↓大出の絶景ポイント


〇10/26(日) 青空。白馬、戸隠、妙高の見回りに。

日曜日朝、居間でゴロゴロしてTVを見ていたら女房が言った。「青空ッ」 紅葉の山を見に行く絶好の好機だと諭してくれていると気が付いたので、起きて、支度をして、出立した。午前九時。
白馬着、12時。
戸隠着、1時半。シャトルバスに乗り換えて鏡池に行った。600円。紅葉の盛りを過ぎていた。
妙高着 3時半。4時19分・いもり池発。
七尾着、7時5分
白馬・戸隠・妙高は三連でボクの見回りコース。今年も信州・上越の紅葉は味わった。来週末は連休というし、絵を描きに出ようか。
今回の見回りの成果(写真)は後刻上程します。

2014年10月25日土曜日

〇10/24(金)珠洲ビーチホテル、25(土)朝・珠洲「見附島」

〇久し振りに珠洲ビーチホテルに来た。既に紅葉している。
 ホテルに至る道
 ホテルの裏手が松林で、散歩すると鉢ヶ崎海岸に出る。

 翌朝(今日・土)「見附島」に寄って戻ってきた。絵を描く気が半分あった。が、写真を撮るだけで帰ってきた。一応絵になっているし、手間も少なそうで結構なんだが今一描く気が湧かない。




2014年10月24日金曜日

〇「奥の細道紀行」(69) 宮城県名取市笠島・芭蕉句碑《笠島はいづこ皐月のぬかり道》、・歌枕「藤中将実方(とうのちゅうじょうさねかた)の墓」

↓探し回ってとうとうたどり着いた、「実方中将の墓」と「芭蕉の句碑」 セレナ君がいる。
実方橋。最近、観光用に作られた。
↓中央が芭蕉句碑
↓芭蕉句碑
左が芭蕉句碑


笠嶋はいづこ皐月のぬかり道
↓「かたみのすすき」 かたみのすすきが出てくれば、ここで「奥の細道」を引用しなければ、すすきが何で出てくるのか分るまい。そこで、
鐙摺・白石の城を過ぎ、笠嶋の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと、人にとへば、「是れより遥か、右に見ゆる山際の里を、みのわ(箕輪)・笠嶋と云ひ、道祖神の社、かた見の薄(すすき)、今にあり」と教ゆ。此の比(ころ)の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、そよながら眺めやりて過ぐるに、箕輪・笠嶋も五月雨の折にふれたりと、
笠島はいづこさ月のぬかり道
岩沼に宿る。》
↓芭蕉句碑の右側背後に「かたみのすすき」はある。
↓草鞋塚の碑
仙台の歌人・松洞馬年の句碑「笠島はあすの草鞋のぬき処」
↓実方の墓への参道
↓実方の墓


「中将実方朝臣之墳(墓)」

↑「藤原実方朝臣(実方中将)の墓 藤原実方朝臣は中世三十大歌仙の一人で一条天皇につかえ、左近衛中将であったが藤原行成卿(書道の大家、三蹟の一人)との争いがもとで長徳元年(995)陸奥守に左遷され、はるばるとみちのくに下った長徳四年(998)冬、笠島道祖神社の前を乗り打ちして奇禍にあい、それがもとで、この地に薨じた。その命日は、里人によって「国司祭」とよばれたという。実方は、能因・西行にさきがけて、いわばみちのく歌枕散歩に先鞭をつけた人というべきであろう。星移り年変わって、西行がみちのくを訪れた時、野の中に立つ由緒ありげな塚をみて、これが実方の墓と知った彼は折りから霜枯れのすすきに心をよせ「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野のすすき形見にぞみる」の一首を残した。実方・西行にゆかりのあるこの地は芭蕉の詩心と遊心とをかき立てる憧憬の地であったにちがいなかったと思われる。しかし芭蕉は遂にその願いを断念せざるを得なかった。「笠島はいづこさ月のぬかり道」の一句は彼の万斛(ばんこく)の思いをこめた絶唱である。芭蕉の門人天野桃隣は先師の心をくんでか元禄九年(1696)はるばるとこの地に杖をひいたが、実方の墓はさらに風雪にあって様子をかえ「五輪(塔)は崩れて名のみばかり」であったと、その荒廃ぶりを紀行文「陸奥鵆(むつちどり)」に書きとどめた。今はその五輪塔さえ失われ、わずかに墳丘をとどめるばかりで、墓の畔には、西行の歌を刻んだ標石のほか、実方朝臣の「桜狩り」の歌碑があり、また西行の歌にゆかりのある一叢の薄の中に松洞馬年の句碑がある。」
西行の歌碑 1136年、西行法師が訪ねた折に詠んだ歌。
枯れもせぬそのな(名)ばかりとどめおきて 枯野のすすきかたみにぞ見ゆ
↓実方顕彰の歌碑
桜がり雨はふりきぬ・おなじくは ぬ(濡)るともはな(花)のかげ(蔭)にかくれむ
〇これで第一次「奥の細道紀行」の旅は終わった。この後急旋回して郡山に戻り会津街道に入り、その夜は会津若松近くの道の駅で泊まった。