〇奥の細道《五十丁山に入りて、永平寺を礼(らい)す。道元禅師の御寺也。邦畿千里を避けて、かゝる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有とかや。》
〇永平寺には芭蕉の足跡は何もない(ボクには何も発見できなかった)。世俗の付き合いが断ち切れない芭蕉如きが立ち寄ったからとて何することぞという曹洞禅の気概だろうか。ヒッピー俳人・種田山頭火の句碑はある。有名な「てふてふひらひらいらかをこえた」の句ほか二句。
写真は夕暮れで暗い。
三門
中雀門
↓仏殿。本尊は釈迦牟尼仏。
↓法堂(はっとう)外陣
↓庫裏
↓大すりこぎ
↓傘松閣
2015年3月31日火曜日
〇芭蕉「奥の細道紀行」北陸路(32) 越前松岡「天龍寺」・芭蕉と北枝の別れの場
〇奥の細道《丸岡(註・松岡の誤り)天龍寺の長老、古き因(ちなみ)あれば、尋ぬ。》
↓門前に芭蕉塚があった。↓奥の細道原文
↓山門
↓本堂
↓松岡城主松平昌勝公御像堂
〇奥の細道《又、金沢の北枝といふもの、かりそめに見送りて、此の処までしたひ来る。所々の風景過さず思ひつゞけて、折節あはれなる作意など聞ゆ。今、既に別れに臨みて、
物書いて扇引きさく余波(なごり)哉》
↓芭蕉と北枝の石像、冬の風雪から護られて菰を被っている。別れの場。「余波の碑」↓芭蕉像
↓北枝像
↓芭蕉句碑
《物書て扇引さく余波哉》
2015年3月29日日曜日
〇朝、敦賀市街地を走り回り、午後・大垣の奥の細道結びの地を探訪した。雨。
〇道の駅・河野で目覚めたら八時前。河野は越前市に入り込んでいた。敦賀市街に戻り、早速探訪再開。芭蕉の旅宿跡・色が浜行の舟を仕立ててくれた船問屋跡など四か所を探訪。そして奇跡的に四か所とも探り当てた。特に旅宿跡と船問屋跡は小さな石碑が各一本人知れず立っているだけ。そこに立ってみて芭蕉が敦賀に来てそこで寸時を過ごしたときのことをまざまざと想像してみて楽しかった。あとは鐘塚と気比の松原。小雨模様の中。北陸自動車道に乗り一気に大垣へ。
〇大垣に入り、奥の細道結びの地はすぐに見つかった。以前大垣城を探訪したことがあり、結びの地はその近くにあることを学んでいたことも寄与した。大垣で芭蕉を迎えたのは木閑(ぼくかん)という俳人だが二人の銅像が水道川の土手に立っていた。水道川には今も船着き場があり、そこから芭蕉は伊勢神宮の遷宮を拝見に旅立った、再会した曾良や木閑に見送られて。《蛤のふたみに別れてゆく秋ぞ》の場面。最後に美濃赤坂の石灰山の山頂にある「明星輪寺」の芭蕉句碑にお目にかかって東海北陸道を伝って帰ってきた。七尾着、六時半。大垣の全行程は雨に祟られた。寒かった。全通した氷見道を始めて走った。
〇大垣に入り、奥の細道結びの地はすぐに見つかった。以前大垣城を探訪したことがあり、結びの地はその近くにあることを学んでいたことも寄与した。大垣で芭蕉を迎えたのは木閑(ぼくかん)という俳人だが二人の銅像が水道川の土手に立っていた。水道川には今も船着き場があり、そこから芭蕉は伊勢神宮の遷宮を拝見に旅立った、再会した曾良や木閑に見送られて。《蛤のふたみに別れてゆく秋ぞ》の場面。最後に美濃赤坂の石灰山の山頂にある「明星輪寺」の芭蕉句碑にお目にかかって東海北陸道を伝って帰ってきた。七尾着、六時半。大垣の全行程は雨に祟られた。寒かった。全通した氷見道を始めて走った。
2015年3月28日土曜日
〇奥の細道紀行、北陸路・最後の旅に出た。
〇越前吉崎「汐越の松》の後は、越前松岡町「天龍寺」での北枝との別れの場、永平寺参詣と続く。ここまでは既に探訪済み。未だブログに上程してないだけ。本日・土曜日午前九時半七尾を出発して、残された福井、敦賀を探訪した。明日・日曜日、奥の細道紀行最終地の大垣を訪れて帰ってくる。福井では貧窮の俳人「等哉(とうさい)」宅に二泊したその地を発見する事にスリルがあった。さてどうなったでしょうか。敦賀では気比神宮を訪ね、そこで芭蕉の銅像に巡り逢った。芭蕉は敦賀半島の色が浜に西行の歌枕を訪ねて行っている。舟で行った。ボクはセレナでそこに行った。なかなかエキサイティングだった。敦賀では宿泊地と舟を出してくれた天屋家所在地の探訪が残された。ので道の駅「河野」で宿泊。敦賀湾を挟んで向かいは敦賀半島先端。淡い夕焼けが綺麗だった。
明朝敦賀市街地を走り回って残された探訪地を探し、それから大垣に向かうつもり。
2015年3月25日水曜日
〇芭蕉「奥の細道紀行」北陸路(31) 越前吉崎「汐越(しおこし)の松」
〇奥の細道《越前の境、吉崎の入江を舟に棹(さをさ)して、汐越の松を尋ぬ。》 芭蕉と北枝は吉崎で舟に乗って海側から汐越の松を目指した。
↓ 吉崎の入江。丸島の向こうが日本海。蓮如が浄土真宗布教の橋頭保とした吉崎御坊はこの地にある。
↓ 橋の上から反対側を見ている。奥に往けば北潟。↓ 北潟方面(西)にしばらく行くと道は南に直角に折れ曲がる。南に行くと北潟、直進すると芦原ゴルフクラブ。
「おくのほそ道・汐越の松碑 ここから左へ九OOメートル先芦原ゴルフクラブの前庭」。この碑の前に公民館がありそこで催し物をしていた。参加者に汐越の松の所在地を訊いたら「ゴルフ場の中だよ。入れてくれないんじゃないか。まぁ行って頼んでみたら」だと。
↓ 芦原ゴルフクラブに着いた。受付嬢に「汐越の松」を訪ねてきたんですが、と話すと、「あっ」と言って奥に行き帳面を抱えてきた。「ここにサインをして下さい」。そして行き方を教えてくれたが、それがゴルフ場の中を通って日本海に出るという。
とにかく挑戦。指示説明を取り違えていたと見えてとんでもない所に着いた。プレーヤーに訊いたら方向違いの遠方を指示された。やっと受付嬢の言っていた日本海の見えるところに出た。
↓ 着いたッヽ(^。^)ノ
松はとっくに枯れてない。
↓ すっかり風化しているが、これはひょっとして芭蕉像?
↓ これはどうも汐越の松の遺骸らしい。二代目あたりの。
《終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて
月をたれたる汐越の松 西行》
此の一首にて数景(すけい)尽きたり。もし、一辨(いちべん)を加(くはふ)るものは、無用の指を立つるがごとし。》
〇この歌は、蓮如上人が吉崎で詠んだもので、西行作は芭蕉の誤聞だと注釈にある。
2015年3月20日金曜日
〇明日午前中ナースクラブ退散。支払はツケ。
〇水曜日にカテーテル心臓造影検査。結果極めて良好。ただ糖尿病・腎臓の検査数値が悪化。原因は分かっている。チョコ(昼飯代わり)の食べ過ぎ、スープ(塩分)の飲み過ぎ。
明朝最後の血の抜き取りを受けて、退院。ナースクラブの居心地は好いんだが、やっぱり娑婆に戻れるのは嬉しい。
明朝最後の血の抜き取りを受けて、退院。ナースクラブの居心地は好いんだが、やっぱり娑婆に戻れるのは嬉しい。
2015年3月18日水曜日
〇ナースクラブで悠遊中。春分を病院で迎える。
週初(月)からナースクラブに入り浸っている。公立のと総合病院循環器内科東病棟六階にある。検査入院。至って静謐な環境。夜九時過ぎには寝静まる。入院患者はすべてボクよりも高齢。大概老衰の検査治療に励んでいる。
週末(金)に春分を迎える。昨年末旅行に出たのは冬至の数日後。月日の巡りは早い。地球の公転速度は速い。多分ロケットでも追いつけないスピードで太陽を回っている。この調子で太陽を三周すると、ボクの死亡予定年齢に達する。それじゃ可哀相と考える人がいて余命十年とおまけしてくれたところで、大した違いはない。地球が太陽を十周したらそれで終わり。
ナースクラブを引き払うのは週末。今春からは一層一期一会の精神で風景・文化財に接しよう。在るモノたちをしみじみ味わおう。
2015年3月13日金曜日
〇芭蕉「奥の細道紀行」北陸路(30) 加賀市大聖寺「全昌寺(ぜんしょうじ)」
〇「全昌寺」は、地元石川県民にすらほとんど知られていない。しかし「奥の細道」紀行文全分量の中に占める割合は破格に大きい。全昌寺での体験は芭蕉にとって重要だったのだ。この寺に泊ることになった縁は、山中温泉の泉屋の菩提寺がこの寺だったので、泉屋久米之助(桃妖)の紹介を得たらしい。
以下、全昌寺のくだりの全文を書き出す。
〇【奥の細道】《大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶、加賀の地也。曾良も前の夜此の寺に泊りて、
↓「この寺はもと山代にあったが慶長二年(1598)大聖寺城主山口玄蕃頭宗永公の信仰を得て大聖寺に移された。
元禄2年(1689)8月俳人芭蕉と曾良が奥の細道行脚の途中ここに宿泊されたその時の句は後に句碑として境内に残っている。
寺宝には杉風作の芭蕉木像、兆殿司作と伝える絹本着色釈迦三尊十羅刹女図太閤秀吉朱印状等がある。
また別棟に慶応3年(1867)作の五百羅漢像が五百体揃って安置されている。‥‥」
↓本堂
↓杉風作の芭蕉像
↓「奥の細道」全昌寺のくだりの全文が刻されている。
↓はせを(芭蕉)塚と曾良の句碑の解説文
↓左から木圭句碑、芭蕉句碑、芭蕉塚、曾良句碑。
↓者勢越(はせを)塚
↑右側面の芭蕉句碑は風化で読み取れない。
塚の左に新しい芭蕉句碑が立っている。
↓深田久弥(九山)の石碑
↓羅漢堂中央
↓圧巻は羅漢堂の五百羅漢像。迫力満点。これは向かって左側の並び。
↓右側の並び
以下、全昌寺のくだりの全文を書き出す。
〇【奥の細道】《大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶、加賀の地也。曾良も前の夜此の寺に泊りて、
終霄(よもすがら、霄はショウ・そらと読む)秋風聞(きく)やうらの山
と残す。一夜の隔(へだて)、千里に同じ。吾も秋風を聞きて衆寮(僧たちを宿泊させる所)に臥せば、明(あけ)ぼのゝ空近う、読経声すむまゝに、鐘板鳴って、食堂(じきどう)に入る。けふは越前の国へと、心早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙硯をかゝえ、階(きざはし)のもとまで追い来る。折節、庭中の柳散れば、
庭掃(はい)て出(いで)ばや寺に散(ちる)柳
とりあへぬさまして、草鞋ながら書(かき)捨つ。》
↓全昌寺に着いた。中央やや左・山門、左端・羅漢堂、山門右・本堂、右端・方丈。
↓山門脇の石碑 「五百羅漢 芭蕉旧跡 曹洞宗熊谷山・全昌寺」↓「この寺はもと山代にあったが慶長二年(1598)大聖寺城主山口玄蕃頭宗永公の信仰を得て大聖寺に移された。
元禄2年(1689)8月俳人芭蕉と曾良が奥の細道行脚の途中ここに宿泊されたその時の句は後に句碑として境内に残っている。
寺宝には杉風作の芭蕉木像、兆殿司作と伝える絹本着色釈迦三尊十羅刹女図太閤秀吉朱印状等がある。
また別棟に慶応3年(1867)作の五百羅漢像が五百体揃って安置されている。‥‥」
↓本堂
↓杉風作の芭蕉像
↓「奥の細道」全昌寺のくだりの全文が刻されている。
↓はせを(芭蕉)塚と曾良の句碑の解説文
↓左から木圭句碑、芭蕉句碑、芭蕉塚、曾良句碑。
↓者勢越(はせを)塚
↑右側面の芭蕉句碑は風化で読み取れない。
塚の左に新しい芭蕉句碑が立っている。
《庭掃ていでばや寺に散柳》
↓曾良句碑 《終夜秋風きくやうらの山》↓深田久弥(九山)の石碑
↓羅漢堂中央
↓圧巻は羅漢堂の五百羅漢像。迫力満点。これは向かって左側の並び。
↓右側の並び