2016年2月24日水曜日
〇仲 里依紗 女の子時代の画像発掘。ハチワンダイバー(将棋の話)の主演女の子。丸過ぎて「逃げる女」出演女優と同一とはどうしても思えない、絶対
〇「ハチワンダイバー」全11篇を見終わっても、「逃げる女」で見た仲里依紗が、どの役で出ていたのか、終に分からなかった。果たして出ていたのかとの疑問も持った。それが、仲里依紗がトンデモ・ダイエットをした検索記事に行き当って漸く納得。それにしても分らんもんやなぁ。
2016年2月17日水曜日
2016年2月15日月曜日
〇感動的文化財(1) 吉野山・金峯山修験本宗総本山《金峯山寺》 《蔵王堂》(本堂)国宝、秘仏重文《金剛蔵王権現立像三躯》巨像
〇金峯山寺本尊《金剛蔵王権現立像》三躯が特別公開されるというので2012-4-1に吉野山に登って来た。秘仏だが、国宝蔵王堂(本堂)修繕資金勧進のため度々特別公開されるらしい。
〇吉野山・大峰山修験道の総本山。正式には金峯山修験本宗総本山。役小角(えんのおづぬ)の開基と伝わる。
〇南北朝時代、南朝がここに開かれた。
↓これは国宝二王門(仁王門とも)。2016-2現在大改修のため覆い屋の中で見られない。
↓国宝蔵王堂(本堂) 大修復の際、天正20年(1592)再興の銘が発見された。↓本堂大厨子が特別開帳されて、本尊重文《金剛蔵王権現》三体が巨大な姿を現していた。1592年頃の制作らしい。
↓本尊内陣の裏に安置されている蔵王権現立像。重文、鎌倉時代後半の制作らしい。
↓蔵王堂の真裏に新築された本地堂
↓本地堂内部の神仏習合本地仏。蔵王堂の三躯の蔵王権現に対応する。中央・釈迦如来、向かって左・弥勒菩薩、右・千手観音菩薩。
2016年2月10日水曜日
〇《佐渡相川金山》
〇宗太夫間歩(まぶ、坑道のこと)入口
↓間歩(坑道)↓右奥に記帳役がいる。人夫の出入を記帳。左手前は少年。坑内では15歳位の子供も働いていた。手に持っているのは照明用の油桶で灯油の補給に廻っている。タガネ・鉱石の運搬など軽い雑用にも使われた。
↓休息所。採掘作業は4時間ごとの交代制だった。金穿大工は他の坑内労働者と違い、技術者として処遇されていたので、食事や休憩の時間がとれ、筵(むしろ)の上で横になることも出来た。
↓無宿人。江戸後期の1778年から幕末までの約90年間、江戸や大阪、長崎の無宿者が水替人足として佐渡金山に送られて来た。記録によるとその数は1874人とも言われており意外と少ない。
樋引(といびき)人夫と水替人足。 坑道が深くなると出水量が増え排水が必要となる。水上輪などを操作するのが樋引人夫、つるべや手桶で湧水をかい出す重労働をするのが水替人足。水替人足には、江戸時代後期に僅かの人数(約90年間で1874人)ではあったが、江戸・大阪などから無宿人などが送られた。
〇「道遊の割戸」 割れ目がその昔金鉱脈を掘った跡。
↓金を製錬した跡
〇相川奉行所跡
〇無宿人の墓
↑「水替人足(無宿)の墓 嘉永6年の建立。坑内作業中に死んだ28人の生国、戒名、名前、年齢を刻んである。わずかな時間で滅んだ君ら、穴ぐらしの過去・未来を圧せられ、5年ともたなかった、‥不明‥長崎の天領地から1800余人の無宿者が目籠で送られた。失職・流浪のはてに、幕府の治安対策で捕らえられた若者たちである。ほとんどが相川で死んだ。
2016年2月5日金曜日
〇《石見銀山》
〇ここは《石見銀山》。島根県(石見国)大田(おおだ)市大森。
↓この門の奥に行くと石見銀山の坑道群がある。坑道は「間歩(まぶ)」と呼ばれた。この門の手前を行くと、江戸時代の街並みが残る。石見銀山は世界遺産登録されている。
↓公開されている龍源寺間歩へ。↓清水谷精錬所跡。灰吹法という新しい方法で製錬した。この方法は先進的で有効だったが、鉱夫に鉛中毒に罹るものが多く、30歳を越して生きた者は尾頭付き鯛と赤飯で長寿を祝われたそう。当時公害という観念はなかった。
↓当時の清水谷精錬所
↓新切間歩
↓間歩入口群↓福神山間歩
↓無名の間歩
↓龍源寺間歩入口。唯一常時公開されている間歩。最初の門から約2km歩いてきた。
↓本坑内部
↓竪・横坑。銀鉱脈に遭遇すると本坑から竪あるいは横に掘って行く。
↓以下、本坑を外れて銀鉱脈を掘り進んだ跡。
↓本坑に髭の様な線が付いている。これが銀鉱脈に当ってそれを掘り進んだ竪・横坑を示す。
↓本坑 ↓銀鉱脈掘削跡竪坑
↓本坑がここから狭くなる。この先に落盤があり通行止め。写真が90度右回転している。
↓新坑。出口へ一直線に続く。
↓出口↓出口近くの大きな間歩入口。
↓大久保間歩入口。近時期間限定で公開されているそう。要予約。
↓大久保間歩内部。山の反対側に突き抜け、昔は通学路にもなったそう。
江戸時代、石見銀山全盛時代の街並が保存されている。世界遺産観光スポット
〇次は、佐渡相川金山。