2016年6月30日木曜日
2016年6月29日水曜日
〇6/5(日)大阪府和泉市・和泉国三宮「聖神社」 重文本殿、重文末社二社本殿探訪
〇和泉国三宮「聖神社」は和泉市街の外れの岡にある。尤も今はここも市街地に呑まれている。
和泉国は五宮までその存在が明瞭。一宮は大鳥神社、二宮は泉穴師神社、三宮はここ聖神社、四宮は積川神社、五宮は日根神社。これら五社を巡行せずともその一社を参れば全社を廻ったことになる便宜な神社が和泉国総鎮守社・泉井上神社。
↓一の鳥居
↓二の鳥居境内。中央が拝殿。真新しい
↓拝殿から本殿を見る
↓横手から本殿を見る。重文
↓「聖神社 聖神社は白鳳3年(674)、天武天皇の勅願によって信太首(しのだのおびと)が創建したと伝えられ、以降延喜式内社、和泉国五社明神の三の宮に列し、「信太明神」の別称でも人々に親しまれている。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の孫神「聖大神」を主祭神とし、天照大神他四柱の神々を配祀している。かつての境内地は信太山丘陵の大半約百万坪を有していた。境内には国指定重要文化財である慶長9年(1604)再建の聖神社本殿をはじめ、末社の三神社本殿、瀧神社本殿があり、末社平岡神社本殿は大阪府有形文化財に指定されている。」
「聖神社本殿 豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建し、屋根は檜皮葺、桁行三間、梁間三間の三間社入母屋造と云う神社建築様式で、桃山文化の粋を集めた極彩色の装飾が施された壮麗な社殿」↓末社平岡神社
本殿は大阪府有形文化財
↓右・末社三神社、左・末社瀧神社
↓重文・末社三神社本殿。元は東南部の神護寺「奥ノ院」に鎮座していたが、明治6年に現在地へ遷座した
↓三間社春日造と呼ばれる全国的にも珍しい建築様式(春日造は普通一間社)
↓末社瀧神社本殿・重文
2016年6月27日月曜日
〇6/5(日)和泉市・和泉国総鎮守「泉井上神社」 重文・本殿を探訪
〇和泉井上神社は和泉市街地の中にある。
↓「‥‥。神功皇后・仲哀天皇・応神天皇のほか、神功皇后に従って挑戦に渡った神々四十五座を加えた計四十八座を祭神とし、その神像四十八躯を蔵す。境内の清水は神功皇后渡韓の途次、一夜にして湧出したので霊泉と名付けられ、国名の源となる。のち‥‥特に和泉国衙内の神社であるところから和泉の総社(大鳥・穴師・聖・積川・日根の五社合祀)が勧請されて国司以下宮人の崇敬を集めていた。総社本殿は、1605年豊臣秀頼が建立したもので重要文化財に指定されている。」↓拝殿
↓拝殿の奥は高い塀に囲まれて入れない。わずかな隙間から垣間見ると、摂社が二つ見える。左側奥にわずかに重文・本殿の一部が見える。
↓重文・本殿
↓裏に回ってみた本殿
↓「和泉清水 古くから「国府清水」または「和泉清水」とよばれ、霊泉として祭られるとともに、農業用水として周辺の農地を潤してきた泉である。社伝によると、泉は、神功皇后の新羅出兵の際、一夜にして湧き出たことから霊泉として祭られるようになったという。水は常に清らかに澄み、その味は甘露であるとして広くその名を知られ、豊臣秀吉も大阪城に運ばせて、茶の湯に用いたという。ここは古来、和泉国和泉郡和泉郷と呼ばれた地であるが、「和泉」と云う地名も、また「泉井上神社」の社名もこの泉に由来すると伝えられている。」
↓和泉清水の拝殿
↓拝殿に向かって右隣にある和泉清水跡
和泉清水の石碑。もう清水は湧出していないように見える
2016年6月26日日曜日
〇6/4(土)大阪府和泉市「法道寺」に重文多宝塔・食堂を探訪
〇法道寺に辿り着いたのはもう夕刻近い午後四時半過ぎだった。境内に一歩足を踏み入れて、その清楚さと、堂塔伽藍すべての端正さに感心させられた。全国の寺院を探訪して歩いてこれほど感動させられることは滅多にない。
↓「重要文化財 法道寺多宝塔・食堂」
↓「当寺は、‥天智天皇9年(670)、法道仙人が当山で飛鉢(ひはつ)の法を行じ、その霊験を聞き及んだ天智天皇の勅願によって、閑谷院長福寺として開創されました。この鉢を収めた山を鉢塚山といい、これによつて山号を鉢峯山といいます。南北朝時代には、楠木正成の一族であった橋本正員(まさかず)の菩提寺となりました。その後、8代将軍徳川吉宗の嫡子が長福丸(ながとみまる)と名付けられたことにより、同名であることをはばかり、法道仙人の開基であることから1716年、法道寺と改名しました。往時は多数の塔頭寺院を擁する大寺院でした。
↑境内にある建物のうち、鎌倉時代後期の食堂、南北朝時代の多宝塔は、ともに国の重要文化財に指定されています。また、南北朝時代に制作された仏画「十六羅漢像」(重文)、‥など数多くの文化財を有しています。」
〇↓十六羅漢図・重文
↓楼門を潜って振り返る
↓本堂に向って右側に大師堂が見える
大師堂
↓本堂に向って左側に重文・多宝塔が見える
↓多宝塔・重文
↓多宝塔の左側に重文・食堂がある
↓右・食堂、左・楼門
↓横門から出る。境内内の右に見える建物は食堂
↓境内の外から見た多宝塔
↓右・多宝塔、左・白塀側は本坊・庫裏等
〇拝観料など当てにする気配なし。しかも豊かそう。秘訣は墓地分譲事業の成功にありそう。広大な墓地がある
↓「重要文化財 法道寺多宝塔・食堂」
↓「当寺は、‥天智天皇9年(670)、法道仙人が当山で飛鉢(ひはつ)の法を行じ、その霊験を聞き及んだ天智天皇の勅願によって、閑谷院長福寺として開創されました。この鉢を収めた山を鉢塚山といい、これによつて山号を鉢峯山といいます。南北朝時代には、楠木正成の一族であった橋本正員(まさかず)の菩提寺となりました。その後、8代将軍徳川吉宗の嫡子が長福丸(ながとみまる)と名付けられたことにより、同名であることをはばかり、法道仙人の開基であることから1716年、法道寺と改名しました。往時は多数の塔頭寺院を擁する大寺院でした。
↑境内にある建物のうち、鎌倉時代後期の食堂、南北朝時代の多宝塔は、ともに国の重要文化財に指定されています。また、南北朝時代に制作された仏画「十六羅漢像」(重文)、‥など数多くの文化財を有しています。」
〇↓十六羅漢図・重文
↓楼門を潜って振り返る
↓正面に本堂
大師堂
↓本堂に向って左側に重文・多宝塔が見える
↓多宝塔・重文
↓多宝塔の左側に重文・食堂がある
↓右・食堂、左・楼門
↓食堂前から見た多宝塔
↓食堂・重文↓横門から出る。境内内の右に見える建物は食堂
↓境内の外から見た多宝塔
↓右・多宝塔、左・白塀側は本坊・庫裏等
〇拝観料など当てにする気配なし。しかも豊かそう。秘訣は墓地分譲事業の成功にありそう。広大な墓地がある