〇7:30小千谷市道の駅出発。十日町市「神宮寺}(曹洞宗禅寺)で山門・本堂(いずれも茅葺、新潟県指定文化財)拝観。杉苔も美しかった。焼失後、江戸時代後期に再築。9:30松苧山頂の松苧神社に到着。途中まで林道があるが、最後は登攀。山頂には鎖場もあった。今日の登山で、月山登頂は無理だと結論を出した。10:30七尾に向けて帰路に就いた。
〇午後8:00NHK東京都知事選選挙特報開始。即・当確「小池百合子」。ボクの予想通り。自民票を自民推薦の増田寛也よりも取っているんだから話にならない。彼女なら東京大改革をやれる可能性がある。石原伸晃は小者過ぎて敵ではなかった。森善朗は引退時期を誤れば彼女の体よい餌食になる。が、森善朗に潔さを求めるのは無理というもの。
2016年7月31日日曜日
2016年7月30日土曜日
〇7/30(土) 出直しの旅に出た。柏崎市《観音堂仁王門前の芭蕉句碑」「田中角栄記念館」、小千谷市「魚沼神社・重文阿弥陀堂」
09:00過ぎ出発。女房に「出直しの旅に出るわ、御達者で」と言ったら変な顔をしていた。柏崎市西山町の観音堂を一直線に目指したが、眠くなったので名立谷浜SAで一眠りした。観音堂では300段の石段登りを覚悟していたがそんな重労働は必要なかった。それよりも夏草に埋もれていて仁王門の発見に苦労した。仁王門の傍に在るという芭蕉句碑に遂に遭えないかと諦めかけたとき、執念で道が開けた。《草臥(くたび)れて宿借る頃や藤の花》
ここは旧西山町で田中角栄の出身地であり「田中角栄記念館」があると知っていたので探訪してみることに。道の駅「西山ふるさと公苑」と併設されてあったが、つまらなそうなので入館しなかった(館内撮影禁止、400円)。ふるさと市民館・日中友好記念西遊館も併設。西遊館が特に気に入らなかった。中国の魂胆が気に入らない。それにコロコロと調子よく転がされている日本も気に入らない。中国の、と言ったが正確には中国共産党の魂胆が気に入らない。後進地域の時は手もみして日中友好を口にして援助を頼み、先進地域となり軍事予算を莫大化させ核武装したら掌を返して日本に対して跪くことを強要している。これは中国共産党の魂胆仕業であって、中国と云う国家は未だどこにもない。日中友好は手離しで好いことと盲信していた日本国民は反省を要する。China大陸に中国という国はない。中国共産党の支配は成立している。中国共産党の支配権限は銃口による弾圧に基づく。中国共産党は一かけらの選挙も実施したことがない。人民解放軍は中国共産党直属の私軍であって国軍ではない。その銃口は外敵に向けられているのではない、China人民に対して向けられている。日中友好記念「西遊館」は空しく建っている。田中角栄の業績の評価は慎重にやらねばならない。それにしても安直に設置されている日中友好記念館ではある。
本日探訪の最終目標は小千谷市の魚沼神社の重文「阿弥陀堂」。室町期の年代が墨跡で確認された茅葺仏堂。中に阿弥陀如来像と大日如来像が安置されているという。神社に阿弥陀堂はおかしいじゃないかと云う意見もあろうが、そのような時代(神仏混淆)もあったのだ。それが日本精神。
〇17:30道の駅「ちぢみの里おぢや」到着。今夜はここで野宿。疲労感はない。が、観音堂の藪を半ズボンで歩き回ったので脛が血色の切傷だらけ。
ここは旧西山町で田中角栄の出身地であり「田中角栄記念館」があると知っていたので探訪してみることに。道の駅「西山ふるさと公苑」と併設されてあったが、つまらなそうなので入館しなかった(館内撮影禁止、400円)。ふるさと市民館・日中友好記念西遊館も併設。西遊館が特に気に入らなかった。中国の魂胆が気に入らない。それにコロコロと調子よく転がされている日本も気に入らない。中国の、と言ったが正確には中国共産党の魂胆が気に入らない。後進地域の時は手もみして日中友好を口にして援助を頼み、先進地域となり軍事予算を莫大化させ核武装したら掌を返して日本に対して跪くことを強要している。これは中国共産党の魂胆仕業であって、中国と云う国家は未だどこにもない。日中友好は手離しで好いことと盲信していた日本国民は反省を要する。China大陸に中国という国はない。中国共産党の支配は成立している。中国共産党の支配権限は銃口による弾圧に基づく。中国共産党は一かけらの選挙も実施したことがない。人民解放軍は中国共産党直属の私軍であって国軍ではない。その銃口は外敵に向けられているのではない、China人民に対して向けられている。日中友好記念「西遊館」は空しく建っている。田中角栄の業績の評価は慎重にやらねばならない。それにしても安直に設置されている日中友好記念館ではある。
本日探訪の最終目標は小千谷市の魚沼神社の重文「阿弥陀堂」。室町期の年代が墨跡で確認された茅葺仏堂。中に阿弥陀如来像と大日如来像が安置されているという。神社に阿弥陀堂はおかしいじゃないかと云う意見もあろうが、そのような時代(神仏混淆)もあったのだ。それが日本精神。
〇17:30道の駅「ちぢみの里おぢや」到着。今夜はここで野宿。疲労感はない。が、観音堂の藪を半ズボンで歩き回ったので脛が血色の切傷だらけ。
2016年7月29日金曜日
〇7/29(金) 正午前新潟県に向って旅立ち。滑川に寄って芭蕉句碑・芭蕉宿泊地を探訪
〇真夏日となった。昼近くに出発し、小杉から北陸自動車道に乗り、滑川ICで下りて芭蕉の故地を探訪した。その後新潟県に入り、土・日には新潟県・群馬県あわよくば栃木県まで足を延ばして文化財を探訪する気だった。それが完全に予定が狂った。道の駅「滑川ウェイブパークなめりかわ」の観光案内所で満願の教示を受けたのは最高だったが(芭蕉句碑二箇所、芭蕉宿泊地「川瀬屋跡」、JR滑川駅前・旧北国街道道しるべ)、案内嬢が付け加えた一言がいけなかった。古い町並みで駐車場がないので歩き回った方が好いですよ。忠告も有難く戴いて徒歩で出発したのはいいとして、途中からグロッキー。どうやら熱中症とやららしい。足が動かなくなって街中の小公園の腰掛で横たわっていた。それでも目的地はすべて探訪した。それと行き先々路上駐車はスペース的に可能だった。
〇今夜と明日の宿泊が気重になって耐え難くなったので家に帰って寝ることにした。帰る途中新湊の「放生津八幡宮」に寄り「奈呉の浦」の石碑を探し撮影した。以前探訪した時この石碑を探すことを失念した。
〇女房に小言を言われた。旅に出たら勝手に帰って来るな、布団カバーの差替えなどこちらにも色々都合があるんだそう。夜風が部屋に入って来て少し元気が回復した気がする。明日また出直すかなぁ。小池百合子が頑張っている、勝ち切れるかなぁ。
〇今夜と明日の宿泊が気重になって耐え難くなったので家に帰って寝ることにした。帰る途中新湊の「放生津八幡宮」に寄り「奈呉の浦」の石碑を探し撮影した。以前探訪した時この石碑を探すことを失念した。
〇女房に小言を言われた。旅に出たら勝手に帰って来るな、布団カバーの差替えなどこちらにも色々都合があるんだそう。夜風が部屋に入って来て少し元気が回復した気がする。明日また出直すかなぁ。小池百合子が頑張っている、勝ち切れるかなぁ。
2016年7月27日水曜日
〇《奥の細道紀行》2016.7.17(日) 村上市北端奥山・旧出羽街道の要衝「小俣宿」、日本国の麓
〇小俣宿は出羽国と越後国の境界線に接し、江戸時中期までは村上藩と庄内藩との藩境であった事から重要視され、当初は村上藩の番所が設けられた。戊辰戦争の際は激戦地の1つとなり、小俣宿の多くの民家が焼失した。現在の町並みはその後に再建された明治時代の建物とされ落ち着いた古民家が軒を連ねている。小俣宿から程近く新潟県と山形県の県境には「日本国」と呼ばれる標高555mの低山があり、その名前の目出度さから登山人気が根強い。名前の由来は諸説あるがその一説を紹介すると、この山で捕まえた鷹を将軍に献上したところ、余りにも見事な鷹だった事から将軍が日本一の鷹と褒め称えた。それで鷹を産出した山が日本国と呼ばれるようになった。
↓郵便局の入口に「日本国麓郵便局」と書かれている
↓小俣宿総代(村の庄屋みたいな家柄だろう)の家
↓以下、家々は屋号・家紋付が表示されている
↓「村上藩小俣口留番所跡」
↓新道から旧道らしき道が分岐している。これぞ旧出羽街道そのものだろう。
↓バスは、右が府屋行き、左が雷(いかづち)行き。府屋に行くと日本海に出るので、ボクは更に山中・旧出羽街道を求めて行くことにした、が‥‥
山側の道を暫く辿ると丁字路になる。直進すると大代・雷、左折すると白山神社・粟津?。左折路はやや細く未舗装。ボクは直進した。大代、雷集落を経て雷(いかづち)峠(大型車通行不可)を越えて小名部を経て鼠ヶ関に出た。この道は旧出羽街道ではなかった、多分。旧出羽街道は細く未舗装の白山神社行の道だったろうか。白山神社には「白山神社の老杉」という樹齢1200年の大杉が天高く聳えていたそう。見損なって残念。が、この道も旧出羽街道ではなかったろう。ここで疑問を晴らすためgoogle mapで研究。鶴岡から国道345号線が南下する。これぞ旧出羽街道だろう。これが木野俣を経て関川まで南下する。関川で西進して345号線は日本海に出る。関川で南下する県道52号線がある。これぞ旧出羽街道だろう。52号線は南下を続けた後西進して小俣宿に至る。小俣から南下する旧出羽街道は今回の旅行で辿り切って村上まで繋がった。不明未踏の大沢峠・葡萄峠も探究した。これで旧出羽街道は、ボクの脳裏の地図帳では鶴岡から村上まで完結した。
〇推測だが、芭蕉は温海で曾良と別れて日本海沿いに鼠ヶ関を探訪した。その先のルートは、府屋から山に入り小俣まで来た。そして小俣から旧出羽街道を辿って中村(北中)宿に着いた。一方曾良の方は温海から山に入り温海温泉で湯をつかって山中ルートを辿って小俣宿に着き、その後は芭蕉と同じ旧出羽街道を辿って中村宿で芭蕉と落ち合った。この推測は多分当っている。
〇2016.7.17(日)《奥の細道紀行》鶴岡市「三瀬海岸」
《曾良随行日記》より、
『〇廿六日 晴。大山ヲ立つ。‥‥。大山より三瀬(みせ)ヘ三里十六丁、難所也。三瀬より温海(あつみ)ヘ三リ(里)半。此の内‥‥色々ノ岩組景地有り。未の剋(ひつじのこく、午後二時)、温海に着く。鈴木所左衛門宅に宿。‥‥。』
「三瀬」への道は「難所」だとある。
「三瀬」は現地の道路案内のアルファベット表記を見ると「さんぜ」。
↓国道7号線は現代は海岸線を走りトンネルを潜っているが、昔は向かいに見える山の上の峠を通っていた。
↓「笠取峠(緑色)」がその難所だったろう。海岸道も海が荒れた日は難所だったろう。
『〇廿六日 晴。大山ヲ立つ。‥‥。大山より三瀬(みせ)ヘ三里十六丁、難所也。三瀬より温海(あつみ)ヘ三リ(里)半。此の内‥‥色々ノ岩組景地有り。未の剋(ひつじのこく、午後二時)、温海に着く。鈴木所左衛門宅に宿。‥‥。』
「三瀬」への道は「難所」だとある。
「三瀬」は現地の道路案内のアルファベット表記を見ると「さんぜ」。
↓国道7号線は現代は海岸線を走りトンネルを潜っているが、昔は向かいに見える山の上の峠を通っていた。
↓「笠取峠(緑色)」がその難所だったろう。海岸道も海が荒れた日は難所だったろう。
2016年7月26日火曜日
〇《奥の細道紀行》2016.7.17(日) 羽前「大山宿」
《曾良随行日記》より、
『一 廿五日 吉。酒田立つ。‥‥。未の剋(ひつじのこく・午後二時)、大山に着く。状添え而丸や(屋)義左衛門方ニ宿。夜雨降る。〇廿六日 晴。大山ヲ立つ。』
◇前回の奥の細道紀行で探訪することを失念していた「大山宿」跡を訪ねた。宿場町の面影は全くない。「丸屋義左衛門」方跡など跡形もなさそうな雰囲気の現代風の街並に成り代わっている。鶴岡市の郊外の町と言った感じ。
↓JR羽前大山駅
市街地で「大山川」を渡った
↓「大山一丁目」というんだから大山町の中心地だろう
↓大山一丁目の街並
芭蕉と曾良が一泊した頃の面影は全くない。
羽前大山は、小さな町並みで、アッと言う間に通り過ぎてしまい、写真を撮っている暇もありませんでした。メインストリート(?)にある富士酒造の数軒北側にある家(空き家になっていて、案内板などは無いようです)が、芭蕉が宿泊した丸屋義左衛門宅があった場所だそうです。
参考文献・・・「奥の細道」を歩く、山と渓谷社刊
「芭蕉おくのほそ道」、岩波文庫
「芭蕉おくのほそ道の旅」、角川書店
「奥の細道を歩く事典」、三省堂
2016年7月25日月曜日
〇《奥の細道紀行》7/17(日) 出羽三山「湯殿山」、本宮に社殿はない。御神体は「湯殿」
〇湯殿山有料自動車道路を登って行くとこの石碑群に着く。
中央に「即身成仏」(ミイラ)の模型がある〇石碑群の左に大鳥居が建つ
↓左の建物は休憩所
〇大鳥居前から本宮までの間を往復するバスが15分毎に発着する。このバスに乗ってボクは本宮前に着いた。復路も利用できるが、ボクは歩いて下りる。。
↓本宮前
「湯殿山本宮」
↓いよいよ本宮に向う。ここから撮影禁止
★石段を昇り、そして降りると不思議な世界が待っている。木杭の垣で仕切られた空間。そこに入ると先ず素足になって御祓いを受ける(500円)。それから御神体の前に進む。御神体は、湧き湯が千万年をかけて築いた噴泉塔らしい。噴泉の時期はあったかも知れないが、今は湧いている。この御神体を上り下りする。
芭蕉もこの御神体を参拝し、そして御神体の小さな御山を上り下りしたに違いない。
〇徒歩で下る。↓中心に赤いあの大鳥居がほんの一部見えている。
↓途中に「山姥」が祀られている。
↓湯殿山神社がある
↓橋を渡る。川は「梵字川」。月山の雪融け水を集める。
〇本宮で御祓いを受けて戴いたお守り