2009年7月8日水曜日

脳科学者・茂木健一郎のクオリティ(質感)探究の旅は必ずや挫折する。

トレンディ脳科学者・茂木健一郎はクオリティ(質感)知覚のメカニズムを解明することをライフワークにすると宣言している(尤も最近余り言わないようだが)。彼がクオリティ(質感)知覚を不思議に思うのは至極尤もで、僕も実に不思議に思う。しかし彼のクオリティ(質感)知覚の研究の旅は初っ端から道を間違えている。彼の旅は今もって一歩の前進もあるまい。彼は、視覚刺激によって喚起された網膜の反応が視神経回路を電気的にまた化学的に伝達された末に大脳で如何にしてクオリティ(質感)を形成するのかを問題とする。これではデカルト以来の物心二元論の現代版でしかない。西洋流科学論を身に付けた人は大概この物心二元論の陥穽に陥る、そして陥穽に嵌っていることに無自覚。茂木健一郎ほどの研究者でもやっぱりこの陥穽に嵌っている。物心二元論からは現代においては最早成果が期待し難い。ひと頃僕は養老孟司の唯脳論に心酔していた。しかし近頃この論も物心二元論の陥穽に嵌っていると思うようになった。そもそもクオリティ(質感)は大脳で初めて発生するのではない。クオリティ(質感)は大自然が元来具備している性質。その大自然具有のクオリティ(質感)を知覚するのは眼(視覚)。眼はこれまで一般だったようにカメラと同様の構造機能を有するものと理解されてはならない。眼の網膜は脳そのもの(脳の一部)であってカメラフィルムの如きものではない。大脳の解剖図の描き方が大体において間違っている。大脳が眼や耳、鼻、舌そして身体中に張り巡らされた諸々の神経と切り離されて描かれることが根本的な間違い。これでは大脳は孤立孤独孤高の存在の様に見える。しかし大脳は本来眼、耳、鼻、舌、皮膚等を駆使し、足で移動し手で触り頭を回転させて積極能動的に生活生態環境を知覚するもの。大脳解剖図は脳の一部をなす諸々の全神経と共に描かれなければ大脳本来の構造機能の理解に支障を来す。大脳は決して受動的な存在ではない。探索探究的な隅に置けない存在なのだ。

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