雨降りの中、新宮市街地に入った。新宮市、人口32,000人、過疎化。
南紀に来た目的の第一は、熊野三山のうち「那智大社」に僕は未だ詣でていない、それで那智大社・那智の滝を含めて熊野三山を巡ってみようというもの。先ずは「熊野速玉大社」、かつて家族と訪れたことがあった、娘達はまだ小さかった。雨中の参詣・見学となった。
熊野速玉大社
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熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)は、和歌山県新宮市新宮1にある神社。熊野三山の一つ。熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を主祭神とする。創建年代は不詳である。熊野速玉大神は伊邪那岐神とされ、熊野夫須美大神は伊邪那美神とされるが、もともとは近隣の神倉山の磐座に祀られていた神で、いつ頃からか現在地に祀られるようになったといわれる。神倉山にあった元宮に対して現在の社殿を新宮とも呼ぶ。
1871年 - 近代社格制度のもとで熊野速玉神社として県社に列格。
1883年(明治16年) - 打ち上げ花火が原因で社殿が全焼。
1915年(大正4年) - 官幣大社に昇格。
1967年(昭和42年) - 社殿を再建。
2004年(平成16年)7月1日 - 「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録。
神門。
拝殿。
本殿。
神宝館。拝観料は500円でチト高いと思うが、入ってみれば決して高くないことが分る。国宝が多様で多数なのには圧倒される。この神社の由緒の古さ・ゆかしさを物語る。必見。
神倉神社
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「神倉神社(かみくらじんじゃ、かんのくらじんじゃ)は和歌山県新宮市の神社。熊野三山の一山である熊野速玉大社の摂社。神倉神社は、熊野速玉大社の摂社である。市街地北西部にある千穂ヶ峯の支ピーク、神倉山(かんのくらやま、かみくらさん)の山腹・標高80メートルほどの場所にあり、境内外縁はただちに断崖絶壁になっている。山上へは、源頼朝が寄進したと伝えられる、急勾配の鎌倉積み石段538段を登らなければならない。
《創建》神倉神社の歴史的な創建年代は128年頃と考えられているが、神話時代にさかのぼる古くからの伝承がある。『古事記』『日本書紀』によれば、神倉神社は、神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あめのいわたて)の山であるという。このとき、天照大神の子孫の高倉下命は、神武に神剣を奉げ、これを得た神武は、天照大神の遣わした八咫烏の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされている。熊野信仰が盛んになると、熊野坐神が諸国を遍歴した末に、阿須賀神社に鎮座する前に降臨したところであるとされるようになった(「熊野権現垂迹縁起」)。この記述に従えば、熊野三所大神がどこよりも最初に降臨したのはこの地であり、そのことから熊野根本神蔵権現あるいは熊野速玉大社奥院とも称された。また、熊野速玉大社の運営にあたった修験者の集団・神倉聖(かんのくらひじり)が本拠地としたのもこの神社である。
《歴史》神倉神社は歴史上の参詣記にも幾度か登場する。『平家物語』巻一〇の平惟盛熊野参詣の記事に登場するほか、応永34年(1427年)には、足利義満の側室北野殿の参詣記に「神の蔵」参詣の記述が見られる。
中世の神倉神社は、神倉聖のほか、その下役の残位坊、妙心寺(妙心尼寺)・華厳院・宝積院・三学院の神倉本願四ヵ寺が運営に当たり(『紀伊続風土記』)、中の地蔵堂・参道・曼荼羅堂などの維持管理にあたった。南北朝時代の動乱による荒廃の後はもっぱら妙心尼寺が勧進権を掌握し、享禄4年(1531年)付の神倉再造由緒によれば、延徳元年(1489年)に同寺の勧進により社殿仏閣が再興されているという(『妙心寺文書』)。戦国時代から近世初期にかけても度々災害に見舞われているが、なかでも天正16年(1588年)には、羽柴秀長の木材奉行によって放火、境内がことごとく焼失した。このときの復興に際して、新宮の楽浄坊行満らが西国九カ国に勧進に赴いたと伝えられる(『熊野年代記』)。近世以降は、浅野氏や水野氏からの社領や祈祷料を与えられたとの記録が見える。
《境内》『紀伊続風土記』が伝えるところによると、現社殿の外の崖上に拝殿があり、御供所、満山社、子安社などがあったが、1870(明治3)年の台風で倒壊した。1907(明治40)年には、熊野速玉大社に合祀されるなどした時期もあったが、1918(大正7)年、岩下に祠を再建したのを手始めに、昭和期に社務所、鳥居などが再建された。現在の山上にある丹塗りの社殿もこの時期の建立である。山上にはゴトビキ岩(「琴引岩」とも。ゴトビキとはヒキガエルをあらわす方言)と呼ばれる巨岩がご神体として祀られており、この岩の根元を支える袈裟岩と言われる岩の周辺には経塚が発見されており、祭祀具・仏具などの遺物が多数出土している。この経塚のさらに下層の地層からは、銅鐸片や滑石製模造品が出土している。立地と出土品の様式から、経塚築造の際に銅鐸が破壊されたものと考えられることから、神倉神社の起源は、磐座信仰から発した原始的な自然信仰だと考えられている。そうした自然信仰のかたちを現在に伝えるとともに、熊野信仰の最も古い層に関係しているという点で貴重な神社である。現在は社務所に常駐の神職は居らず、熊野速玉大社の境外社の扱いである。御朱印や御札などは熊野速玉大社の社務所で取り扱っている。御朱印には「熊野三山元宮」と記載されている。」
御燈祭
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「御燈祭(おとうまつり)は、和歌山県新宮市の神倉神社の例祭。勇壮な火祭りとして知られる。「御灯祭」とも表記する。和歌山県無形民俗文化財。御燈祭は、毎年2月6日に行われるが、もとは旧暦正月6日に行われていた。民俗学的な解釈では、新春の神を迎える祭りであったと考えられており、冬期の山篭を終えた行者たちの下山に時期を合わせて行われていたと考えられている。この祭りの期間に限っては、神倉山は女人禁制となる。1週間前になると、ゴトビキ岩の注連縄が張り替えられ、当日の朝には、餅をつき、藁で縛って神前に供える。祭りに参加する男性は上り子と呼ばれ、身に付けるものはすべて白でなければならない。また、かつては口にするものも白いもの(白飯、大根、白かまぼこ、白身魚等)に限定され、斎戒沐浴をして祭りにそなえ、さらには女性に触れることも禁じられていた(現在はそこまで厳しくない)。日が暮れると、男たちは、熊野速玉大社・阿須賀神社・妙心寺に参拝し、祈願の言葉をしたためた松明を手に山上の境内に集合する。祭典の執行と警備にあたる介釈人(かいしゃくにん)と呼ばれる世話人たちに警護された速玉大社の神職たちがゴトビキ岩の下で火を熾す。松明にうつされた火は、石段の途中にある中ノ地蔵との間を幾度か往復する儀式(迎え火)の後、上り子たちの松明に分け与えられる。上り子たちの松明に火が行き渡ると、境内の門が開かれ、松明を手にした男たちが石段を駆け下りる。その様は、炎の川が流れ落ちるかのようである。御燈祭で最も有名なのはここまでだが、祭りの儀礼はまだ終わりではない。上り子たちが散会した後、神職たちだけで神事が行われる。奉幣などを行った神職たちは、阿須賀神社に参拝した後、速玉大社に帰参し、ここで祭りは幕を閉じるのである。」
今度新宮市に行ったら「ゴトビキ岩」を見学しよう。
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