十津川(とつかわ)郷、大塔(おおとう)郷を縫って北上し奈良県五条市に抜ける国道は一部改良されてはいるがまだまだ悪路がクネクネ続く難所で時間を食う。やっとのこと五条市に出たときは、早い夕暮れの雰囲気が漂い出していた。奈良方面に行くか大阪方面に行くか、選択を迫られたとき何となく大阪府河内長野市に向かった。大阪府内は自動車道しか走ったことがない、その下道は全く未知の世界。向かう方面に高い山塊が横たわっていた(後で調べたら「金剛山地」)。
まさかあの山を越えるわけではなかろうと思っていたら、前進するにつれ、どうやらそのまさか。奈良県側はほとんど対向車線なしの一車線道路で悪路。高さが増すにつれ心細くなる。峠の標高は784m、下界を見るとゾッと怖気が来るほど高い。峠を越えて大阪府側に下ると、途端に道は二車線で良くなる。掌を返したように違う、とはこの千早峠越えのこと。峠越えを図りながら、楠正成の千早城の案内標示を目で探し続けたがない。大体この千早峠一帯は山が大き過ぎて守れない、山城築城に不向き、そう思いながら下って行ったら、あった。右折して進むと山の一方は川で刻まれて深い谷となっている。谷底に細長く千早赤坂郷の集落が続く。とうとう「千早城」の登り口に到達したが、その時はもう夕闇が降りて来ていた。とにかく楠正成の城兵と鎌倉の北条軍の攻防が展開された辺りまでは来た。城までは500数十段の石段を登らねばならない。狭心症の持病には石段登りが最も良くない、それにもうほどなく闇となる。千早城に登ることは断念。悔いはなし。
千早城に至る石段。
「楠公史蹟・河南八勝第四蹟・千早」とある。
「審強弱之勢於機先」とある。
「決成敗之機於呼吸」とある。
千早赤坂の町に降りたときはもう暗かった。西の方・河内長野を目指して進んだが、途中から富田林を目指して北上。藤井寺ICから西名阪道に入って西進、松原JCTで近畿自動車道に入り北上、吹田JCTで中国自動車道に入って西進し、西宮名塩SAで停止。当初の目標は舞鶴若狭自動車道の福知山手前だったが、疲れて危険を感じたので一服、のつもりがここで宿泊となった。
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