飛鳥寺では「飛鳥大仏」にお目にかかるのが目的。
『飛鳥大仏』
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銅造釈迦如来坐像(国の重要文化財) - 飛鳥寺(安居院)の本尊。飛鳥大仏の通称で知られる。「起源と歴史」の項で述べたとおり7世紀初頭、鞍作鳥の作とされる。作鳥は、法隆寺金堂本尊釈迦三尊像の作者である「司馬鞍首止利」(しばくらつくりのおびととり)と同一人物とみるのが一般的理解である。当初は法隆寺釈迦三尊像と同様の三尊形式だったはずだが両脇侍像は失われ、釈迦像も鎌倉時代の建久7年(1196年)の落雷のための火災で甚大な損害を受けており当初の部分は顔の上半分、左耳、右手の第2・3・4指に残るのみだといわれる。亀裂の入った部分を粘土で埋め紙を張って墨を塗った部分などがあり、大幅な補修が加えられていることは確かで当初部分がどの程度残存しているのか正確にはわかっていない。右手の第2・3・4指については、掌の部分にほぞ差しされていることがエックス線撮影によって確認されている。アーモンド形の眼の表現などは現存する他の飛鳥仏に共通する表現が見られる。体部のほとんどが後補とみられるが胸前に紐の結び目を表す服制は古様であり、当初像の表現を踏襲している可能性がある。「飛鳥寺」は創建当時「大官大寺」と並ぶ大寺だった。伽藍は五重塔と東・中・西の三金堂を擁し、境内地は現存の飛鳥寺(安居院)の20倍以上に及んだ。飛鳥大仏は中金堂におわした。近年の発掘調査で、飛鳥大仏は幾多の戦乱兵火を潜り満身創痍になられた末に何と創建当時の中金堂におわした位置に今も坐っていることが判明したそう。有難い大仏。この大仏、一見して頭部と身体部のバランスが悪い、頭部を支える身体が貧相。元はバランスが良かったに違いない。身体は右手指三本以外はすべて後世の補作だそう。しかし頭部・顔面は飛鳥仏の面影が濃密に残っている。落雷による火災後に顔の上半分・左耳が残存したことが大きい。それだけ残れば復元された頭部・顔面のバランスは保全されたろう。「飛鳥大仏」の前での寺の説明は大いに振るっていた。そして最後に「お写真は御自由に」と一言付け加えて呉れた。万歳\(^o^)/。岡寺でもどこでも神社仏閣は勿体ぶって御神体・御本尊は当然のこととして撮影禁止、それが常識でしょうの世界。飛鳥寺は違った、話が分る、偉いっ!御本尊を、フラッシュを焚いて堂々と撮影するという至福のひと時を与えられたのは生まれて初めて。
脇侍として置かれている聖徳太子像
脇侍の阿弥陀如来像
西陣織の飛鳥大仏
飛鳥寺から「甘樫丘(あまかしのおか)」を目指した。「甘樫の丘」まで歩いてどの小山がそれなのか確かめようという算段。この特定が出来ないと、飛鳥の他の史蹟・事跡の比定が盤石とならないので僕にとっては重要問題。途中丁字路で甘樫丘と逆方向に「飛鳥坐(あすかにいます)神社」があることを示す案内表示が出た。「元伊勢」とも称される由緒ある神社。心がフラフラと迷ったが、甘樫丘の特定を優先。何せ夕闇が迫って来ていた。
飛鳥川を渡ったなりの所に横たわっているのが「甘樫の丘」。飛鳥時代、蘇我蝦夷・入鹿親子がこの丘上に砦を築き山麓に居館を置いて権勢を誇っていたとされている。往時を偲ぶよすがもない。
飛鳥川。帰路は夕暮れの中を飛鳥川沿いにトボトボと歩いた。何せ本日の歩数は18,461歩、さすがに疲れていた。
あと幾つかの寺院・遺蹟を見ながら帰る予定だったが、飛鳥川に沿って行きさえすれば出会えると早合点して歩いたのが見当違いで骨折り損のくたびれ儲けになった。村営駐車場に戻りセレナに再会したときはまだ5時過ぎなのに真っ暗け。今日のうちに琵琶湖辺りまで戻っていることにした。桜井・橿原・天理辺りまでは渋滞に継ぐ渋滞。奈良を過ぎて京奈道路・京滋バイパスを乗り継ぎ瀬田東JCTから名神高速に入った。そして直ぐの草津PAに滑り込んでネット接続を試みたら一発で接続、気に入ったのでここで宿泊することに。
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