2012年5月26日土曜日

〇不思議な体験。自分の喪失。仮面を付けた人間。

今晩、通夜に出た。その席で不思議な体験をした。祭壇の献花の一つの名札に「七尾調停協会・会長三林隆」とある。その役職付きの名前が自分の名前だという実感がない。じっと見つめても、見つめるほど、無縁になる。自分が、意識を生みだす自分が、世間に生きる三林隆という人間と遊離した。ここで、ボクは最近読んだ太宰治の「人間失格」を思い起こした。あの主人公、実は太宰治は、大人になっても世間・人間が分らず、それとの接し方が分らず、接することをただ恐れ、遂に自分を喪失した。ボクの体験は、世間・人間と自分とが乖離したという点で、太宰の苦悩に近づいた。そして、夕刊の記事。「名張毒ぶどう酒殺人事件」の元被告人・奥西勝の再審請求を(名古屋地裁が再審開始決定をしたものを)名古屋高裁が(地裁決定を取消して)棄却した。その論旨がいかにも裁判官的で冷酷。この記事も、ボクの不思議な体験とやはり関連性を持つ。高裁の裁判官こそまさに日本の裁判官の鑑。裁判官の付けるべき仮面を見事に付けて、しかも仮面を被っていることも知らずにいる。人間はかつて古代の闇の中で火を焚き仮面を付けて乱舞し、生贄の人身を冷酷に切り苛むことができた。人間とは、仮面を被ったヒトのこと。仮面とは、ヒト、大脳が、世間との折り合いを付けるため・自己顕示のためなどに取得あるいはインストールされるプログラムのこと。ボクは司法修習生時代、上席刑栽教官から「君の様な男こそ裁判官にならねばならないのだ」と任官を熱心に勧められた。が、ボクは、裁判官の職を全うせずに中途で投げ出す自分を予感して従わなかった。弁護士になったが、その職は、出来の悪い仮面を幾つもとっかえて被る性質(たち)のモノだった。人間は普通自分が仮面を被って生きていることを自覚しない。しかし、ヒトの中には人間になり切れず、仮面を付けることを拒み通すものがいる。太宰治はその一人だろう。生まれ落ちたヒトのまま。ボクも仮面を付けたくない人種。ボクは、自分の天職に何があり得たか考えたことがある。天職とは、仮面を被らずとも全うできる仕事。答えは、①医者、②軍人、③芸術家。医者の道は、高校時代、双子の弟に道を譲った(本当は譲るなどと思う必要はなかったんだが、思ったものは仕方がない)。軍人の道は、戦後生まれなので消えてなかった。ボクが戦前に成人していたら、本当に軍人になっていた可能性がある。そして、仮面を被る気がないから、中尉あたりで、多分兵士より先に落命していた。芸術家の道、これが今現実に残されている。しかし、仮面を被る気がないから画壇と無縁で、「流浪の画家」で果てることになる。それが何より本望、何せ心に適っている。ボクは還暦を過ぎてから急速に少年時代の自分に戻ろうとしている。そしてそこから、誤った人生のやり直しをしようとしているようだ。世間に織り込まれてがんじ絡めの自分を解体し捨てようとしている。「三林隆」という名前さえ捨ててかかっている。生まれ落ちたヒトは名前など背負っていなかった。名前に対する無自覚の服従は、第一番目の仮面を被ること。ボクは、自分の精神が最近浮遊し揺らぐような感じを受けることがある。危うい感じ。前途は知れない。しかし僕は、太宰治の様に自殺はしない。つもり。

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