〇美濃国不破郡《青墓》の地名は、ボクの心に浪漫的な情趣を抱かせる。一度は訪れたいと思っていた。そう思う理由は二つ。その一、後白河法皇の編纂した「梁塵秘抄」、この中に登場する法皇の師であった遊女「乙前」の出生地が青墓。その二、平治の乱で敗れた源義朝が一族郎党と雪中東を指して落ちる時、長男悪源太義平は飛騨で兵を募るため別れ・三男頼朝は幼少のため落後して捕えられ、次男朝長はこの《青墓》の地まで来たが腿に傷手を負って動けなくなりここで志願して父義朝の手で刺殺され葬られた。いわばここは歴史文学の故郷・淵叢。《青墓》の名もロマン的で興趣をそそる。
↑円興寺は今は平地の小寺だが、平安末期・源平争乱期には山上の大寺だった。それは後で示される。その山上に、源朝長の墓がある。
↓円興寺本尊・聖観音立像(重文)。円興寺を訪れたのはこの聖観音像に逢うためだったが、非公開。
↓円興寺境内の梁塵秘抄石碑。京都に上った乙前が今様の名人と称された後、後白河法皇の師となって梁塵秘抄の編纂に貢献したことが刻されている。
↓円興寺境内に置かれた油絵。
↓円興寺が、源朝長の菩提寺であることを示す。但し墓所はかつて円興寺が存在した山上にある。
青墓に青少年憩いの森遊歩道が整備されている。図の右上の山上に「源朝長の墓跡」がある。
↓上図の右上の拡大図。図右下に元円興寺仁王門跡があり、その上に「源朝長の墓跡」がある。元円興寺の鐘楼跡・御堂跡・講堂跡・僧房跡・金堂跡・多宝塔跡などがあり、往時円興寺が大寺であったことを物語る。多分天台密教と修験道が混合していた寺。
↓その「源朝長の墓跡」までは遊歩道を登らねばならない。夕暮れも近づいたし、ボクの心臓には難があるしで到達を諦めた。
〇この後大垣市内に入り、国道をひたすら南下して伊勢方面に向かい今夜の宿営地を探した。東名阪道・御在所SA(三重県四日市市)で泊まった。
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