2013年10月22日火曜日

〇9/28(土)近江八幡市安土町「浄厳(じょうごん)院」。重文・楼門と本堂探訪。

〇浄厳院は、織田信長によって創建された。この寺が歴史に名を残すのは、ここで「安土宗論」が行われたから。信長が、浄土宗と日蓮宗の僧達に宗教論争をやらせた。判定結果は、浄土宗側の勝ち。信長の政治的思惑が絡んでいたらしい。
↓重文・楼門。室町後期。


↓よく見ると、二階境内側に・二人の羅漢or上人が坐って見下ろしている。
ここの仁王像は、造形的にはなかなかの傑作。



↓重文・本堂。室町後期。



 

↓明王堂


↓観音堂。右奥に見えるのは、裏門。
↓右から、重文・本堂、重文・楼門、鐘楼。
Wiki  浄厳院(じょうごんいん)は、滋賀県近江八幡市安土町慈恩寺にある浄土宗の寺院。
本尊は阿弥陀如来
現在の浄厳院の地には、正平年間(1346年 - 1370年近江守護佐々木六角氏佐々木氏頼より建立された天台宗寺院の慈恩寺威徳院があった。慈恩寺はその後兵火により焼失した。
天正5年(1577年)、織田信長は近江国栗太郡金勝山(こんぜさん、現・滋賀県栗東市)の浄土宗の僧・浄厳坊明感を安土に招いた。信長は慈恩寺の旧地に一寺を開き、明感を開山として浄土宗に改め浄厳院と名乗った。信長は、浄厳院の本堂、本尊等を他所から移してきた。すなわち、本堂は多賀村(現・近江八幡市)の興隆寺の弥勒堂を移したものであり、本尊阿弥陀如来坐像は愛知郡(えちぐん)から移したものであった。
天正7年(1579年)5月には、信長の命により浄土宗と日蓮宗の僧による仏教論争(いわゆる安土宗論)が当寺で行われたことで知られる。裁定の結果、宗論は日蓮宗の敗北と決したが、この裁定の背後には信長の強い政治的意思があったといわれている。
重要文化財(国指定)
  • 本堂 - 入母屋造本瓦葺き。正面7間、側面6間(「間」は柱間の数を表す)。信長が多賀村(現・近江八幡市)の興隆寺の弥勒堂を移したものである。
  • 楼門
  • 木造阿弥陀如来坐像 - 像高273cm。平安時代。
  • 厨子入舎利塔
  • 厨子入銀造阿弥陀如来立像 - 像高7.8cmの小像。鎌倉時代。銀製の仏像として稀有のものである
  • 絹本著色山王権現
  • 絹本著色阿弥陀聖衆来迎図

0 件のコメント:

コメントを投稿