松尾芭蕉は芭蕉庵を人に譲ったあと仮寓していた杉山杉風所有の「採茶庵」の前の小川から舟に乗り墨田川に出た。そして墨田川を遡り千住宿に。多くの門弟・門人が千住まで別れを惜しんで見送りに来た。
〇千住宿、ここで芭蕉は舟を下り陸に上がった。見送りの人達とはここでお別れ。いよいよ曾良との二人旅。
☆「奥の細道より引用」「むつましき(睦まじき)かぎりは宵よりつどひ(集い)て、舟に乗りて送る。千じゆ(千住)と云う所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ(思い)胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪(なみだ)をそゝく(注ぐ)。
《行春や鳥啼魚の目は泪》(ゆくはるや・とりなきうをの・めはなみだ)
是を矢立の初として行道なをすゝまず。
人々は途中に立ならびて、後(うしろ)かげのみゆる迄はと見送るなるべし。」
↓千住大橋北詰にある足立区立大橋公園の「奥の細道・矢立初めの地」石碑。
↓「奥の細道」からの引用文が書かれている。↓公園の目の前に旧千住宿の入口がある。松尾芭蕉の銅像が立っている。右隅。文字は「千住宿・奥の細道」
↓芭蕉像。恵比寿さんの様にふくよかな像。こんな芭蕉の描き方は滅多にない。
↓「やっちゃ場の由来 やっちゃ場は多くの問屋のセリ声がやっちゃいやっちゃいと聴こえてくる場所(市場)からきたと言われている。古くは戦国の頃より旧陸羽街道(日光道中)の両側に青空市場から始まり、江戸・明治と続き大正・昭和が盛んだったと聞いている。以下略」 青果問屋が並び、江戸・東京に青物が大量に毎朝ここから運び込まれていたそう。
↓旧陸羽街道筋
やっちゃ場時代の写真発見。
↓千住宿歴史プチテラス
《鮎の子のしら魚送る別哉 芭蕉》(あゆのこの・しらうおおくる・わかれかな)(鮎も白魚も墨田川を遡上してくる魚だが、その時期にズレがある。芭蕉と見送りの人達との別れの場面を象徴しているらしい)
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