2014年9月30日火曜日

〇「奥の細道紀行」(39) 歌枕《白河の関》

 ↑「古関蹟の碑 白河藩主松平定信(楽翁)が寛政12年(1800)8月、ここが白河関跡であることを断定し、建立した碑である。」
 空堀跡

 ↑土塁跡。空堀の土をかきあげて築いた。
 ↓関内の平地
 ↓空堀跡


 ↓奥の細道・白河の関の段が書かれた碑。

 ↑奥の細道《心許(もと)なき日かず重ぬるまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定まりぬ。「いかで都へ」★1と便り求めしも理(ことわり)也。中にも此の関は三関の一(いつ)にして、風騒の人、心をとゞむ★2。秋風を耳に残し★3、紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉の梢★4猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨(いばら)の花咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置かれしとぞ。 卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良》 歌枕満載の一文。
★1「たよりあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと 平兼盛」に拠る。
★2「白河の関屋を月のもるかげは人の心をとむるなりけり 西行」に拠るか。
★3「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞふく白河の関 能因法師」に拠る。
★4「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白川の関 源頼政」に拠る。

 ↓従二位の杉。推定樹齢800年。

 ↓旗立の桜。源義経が平家追討のため平泉を立ったときこの神社で旗揃えをしたとき、ここに生えていた桜に源氏の旗を立てかけたと伝えられている。
 ↓幌掛けの楓。源義家が阿部貞任攻めのとき(前九年の役)、ここに生えていた楓に幌を掛けて休息したと伝えられている。

 〇芭蕉の句碑を探したら神社境内にはなくこんな所にあった。宮司宅の前、ちゃっかり奉納金入れを添えて。
関守の宿を水鶏(くいな)に問はふもの 芭蕉》

2014年9月29日月曜日

〇「奥の細道紀行」(38) 歌枕《白河の関》に遂に到達、「白河神社」

「白河の関 白河関は、古くよりみちのくの関門として歴史にその名を刻み、また文学の世界では歌枕として数多くの古歌に詠まれた場所である。関の位置については久しく不明であったが、江戸時代後期、時の白河藩主松平定信の考証により、この地が白河関跡であると断定され、寛政12年(1800)に「古関蹟」の碑が建てられ、今日に至っている。関が置かれた年代については不明であるが、延暦18年(799)、承和2年(835)の太政官符には「白河●」の名が認められることや歴史的な背景からみて、大化の改新以後の7、8世紀頃には存在していたものと考えられる。‥‥」
↑「式内 白河神社」
↑「史跡 白河関跡」


↓白河神社拝殿


↓本殿
↓延喜式内社 白河神社
 祭神 白河国造命(シラカワクニノミヤツコノミコト)・天太玉命(アメノフトタマノミコト)・中筒男命(ナカツツオノミコト)・衣通姫命(ソトオリヒメノミコト)


↑古歌碑があるらしいので付近を当たってみたが見当たらなかった。歌碑には「白河の関」に題材をとる平安時代の著名な和歌三首が刻まれていたそう。
○《便りあらばいかで都へ告げやらむ 今日白河の関は越えぬと》 平兼盛
○《都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞふく白河の関》 能因法師
○《秋風に草木の露をはらわせて 君が越ゆれば関守もなし》 梶原景季
能因法師の歌は余りにも有名。だが、一説によると法師は陸奥など行ってはおらず都で歌枕を空想して詠んだという。翌年まで家から一歩も外に出ず(陸奥を訪れて不在の筈)、また一年後にわざわざ日焼けして外に出たという(陸奥の旅で日焼けしなければおかしい)。

2014年9月28日日曜日

〇伊賀市上野に松尾芭蕉の故地を尋ね、尋ね終わったらスタコラさっさと帰ってきた。

今朝08:30七尾発。13:20伊賀市上野公園駐車場着。公園内の「松尾芭蕉記念館(奥の細道書画展示中)」「俳聖堂(昭和17年建築なのに重要文化財)」見学。ついでに「上野城天守閣・高石垣」も。市街に入り、「松尾芭蕉生家・釣月堂・無名庵跡」「願成寺・故郷塚(大阪で死んだ芭蕉の遺髪が弟子の手でここ松尾家の菩提寺に運ばれて埋められた。遺骨は遺言で大津市「義仲寺」に埋葬されている)」「蓑虫庵(上野に芭蕉の庵が五つあったがそのうち唯一残っている庵)」を見学。伊賀上野の人は皆親切。特に生家では懇切な説明を受けて色々なことがよく分かった。近くの「故郷塚」に行く道筋も教えて貰った。受けた説明の一つを披露。芭蕉の木は実を結ばない(バナナと同種だが)、材木にもならない、役立たず。松尾芭蕉は自分の俳人人生を芭蕉の木に見立てた。芭蕉を号とする前は20回も名を変えた。が、芭蕉と号してからは二度と変えなかったそう。16:45七尾に向けて出発。21:45七尾着。初めは上野で一泊するつもりだったが、ほぼ芭蕉関係の探訪は終わったし、それ以外の計画は立ててなかったので(実は伊賀上野には重要文化財建造物が5、6点ありその探訪をかねて狙っていたんだが。その資料を事務所に置いてきてしまった)、そうとなったらわざわざ野宿するまでもないと思えたのでスタコラさっさと帰って来た。そしてフトンの中でぬくぬくとしています。
義仲寺(ぎちゅうじ)は先々週末、その探訪に失敗している。木曽義仲の最期の地であるとだけ理解していて、松尾芭蕉の遺骨を埋葬した墓があるとはてんで知らなかった。そうと知った以上はまた行って必ずや到達しよう。そして芭蕉の墓に参拝する。

2014年9月26日金曜日

〇週末旅行。松尾芭蕉の故郷・三重県伊賀市上野へ

今週末、近畿地方の天気が良さそうなので伊賀市上野に遠征してきます。目的は、松尾芭蕉の故地を探訪することです。上野は、芭蕉の生まれ故郷です。上野には何度も行っていますが、観光旅行をしていただけで、芭蕉ゆかりの地という観点から走り回ったことはありません。その観点から見直すと、見るべき史蹟がまだまだ沢山残されていることに驚きます。一回で芭蕉ゆかりの故地を全部回れるかどうか分りませんが、とにかく挑戦してきます。報告をお楽しみにぃ。

〇「奥の細道紀行」(37) 境の明神 句碑《風流の初めや奥の田植え唄》

栃木県那須町と福島県白河市の境界に来た。
↓こちらは那須町側

 境の明神がある。玉津島神社

 ↑「境の明神 玉津島神社とよばれ、奥羽側の住吉神社と並立している。創立は古く、1053年に、紀州和歌浦の玉津島神社の分霊勧請と伝える。起源は峠神として生まれ、奥州街道が開かれると交通の発達とともに発展したが、明治に入り新国道や鉄道の開通によって衰退したものとみられる。ことに明治39年の火災により類焼し、昔日の面影を失ってしまったが、旧東山道沿いの「追分の明神」とともに、道中安全の神として古い歴史をしのばせる貴重な史跡である。」
 ↓福島県白河市側に入る。

 境神社
 ↓神門

 ↓拝殿
 ↓本殿
 ↓芭蕉句碑(多分)発見 
風流のはじめや奥の田うへ唄
と読めないこともない。

2014年9月25日木曜日

〇「奥の細道紀行」(36) 歌枕「遊行柳」を訪ねる。句碑《田一枚植えて立ち去る柳哉》

〇《遊行柳》☚リンク
↓中央上やや左の「現在地」が史蹟「遊行柳」。右下が白河の関。
殺生石・温泉神社から歌枕「遊行柳」を目指した。峠を二つ、三つ越える山道。芭蕉・曾良もこの峠越え道には往生したらしい。曾良の随行日記にその消息が表れている。
奥の細道「又、清水ながるゝの柳は、蘆野の里にありて、田の畔(くろ)に残る。此(この)所の郡守、戸部(こほう)(なにがし)の、「此柳みせばや」など、折々にの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。」
《田一枚植て立去る柳かな
↓蘆野の里。この遊行庵の裏手に「遊行柳」がある。
↓田の中に遊行柳がある。


↓遊行柳


西行 「道のべに清水流るゝ柳かげ
     しばしとてこそ立ちどまりつれ」(新古今集、山家集)
〇ボクは西行に心酔している。西行が遊行した所を生涯かけて回りたいと思っている。もっとも伊勢方面以外はあらかた回ったような感じなんだが、何せ源頼朝と同時代で古い人なので、その全足跡を掌握することが難しい。文献的に全旅程を明らかにすることは不可能なのだ。その点、松尾芭蕉の五、六度の旅行の全行程は、文献的に明らか。何せ御本人が旅行記を書き遺している。そして行く先々に句碑が過剰なほどに建っている。足跡が一々分かる。
西行歌碑と思って撮った写真がどうも間違っていた。残念。
↓芭蕉句碑


田一枚うゑてたち去る柳かな 芭蕉》
何代目かの遊行柳
↓根元を囲われたこちらの柳の方が古いそう。


↓遊行柳を通り過ぎて山手に行くと上の宮がある。古木が立ち並ぶ。
中でもこのイチョウの木が立派。樹齢400年だそう。