《あらたう(尊)と青葉若葉の日の光》
の一句を残している(「たうと」は本来「たふと」だろう)。この句が詠まれた場所は、滝尾神社参道入口付近の「開山堂」が最適地だとボクは感じた。そしてこの夜は、上鉢石宿(今市)の自称「仏五左衛門」の旅籠に泊ってこの亭主を観察して感心する。翌日、芭蕉と曾良は「裏見の滝」を見物した。この件(くだり)の奥の細道の原文。「廿余丁を登って瀧有(り)。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落たり。岩窟に身をひそめ入(り)て瀧の裏よりみれば、うらみの瀧と申(し)伝え侍る也。」そして一句詠んでいる。
《暫時(しばらく)は瀧に籠るや夏(げ)の初(はじめ)》
「夏」は僧の夏行(げぎょう)のこと
芭蕉の日光山見物の記事は、以上ッ終りっ、だが、曾良が随行日記で旅程の詳細をメモしている。それによると芭蕉と曾良は裏見の滝から神橋に戻るように大谷川(だいやがわ)の含満ヶ淵(憾満ヶ淵)を巡っている。このコース取りだと、滝と淵の途中にある「大日堂」も訪れた可能性が大きい。
ボクは「含満ヶ淵(憾満ヶ淵)」は発見できた。が、大日堂は発見できなかった。大日堂は明治時代に洪水で流されて今は跡形もない。
ここにあった寺院も、明治時代の大洪水で流された。
↓この地蔵は「化け地蔵」とも呼ばれる。数える毎に数が合わないんだそう。
↑「憾満ヶ淵(含満ヶ淵) 男体山から噴出した溶岩によってできた奇勝で、古くから不動明王が現れる霊地といわれる。川の流れが不動明王の真言を唱えるように響くので、晃海大僧正が真言の最後の句の「カンマン」を取り憾満ヶ淵と名付けたという。‥‥1689年、松尾芭蕉も、奥の細道行脚の途中立ち寄っている。‥‥」
〇芭蕉と曾良はこの日の昼過ぎ、那須野に向けて慌ただしく旅立っている。
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