《温泉(いでゆ)に浴す。その効有馬に次ぐと云う。
山中や菊はたをらぬ湯の匂ひ 》
↓総湯・菊の湯。芭蕉が浸かった湯はこの菊の湯に相違ない。《菊はたをらぬ湯の匂ひ》の句の中に菊の湯が織り込まれているし、宿をとった泉屋がほんの筋向いにあった。
↓左・菊の湯女湯。右・山中座
〇《奥の細道》の記述。
《あるじとする者は、久米之助とて、いまだ小童也。かれが父、俳諧を好み、洛の貞室(貞徳門の俳諧師)、若輩のむかし、ここに来たりし比(ころ)、風雅に辱しめられて、洛に帰りて貞徳の門人となって、世にしらる。功名の後、此の一村、判詞の料(俳諧の点料)を請けずと云う。今更むかし物語とはなりぬ。》
↓泉屋久米之助の家は、この「みのわ呉服店」辺りにあったと言われている。久米之助は芭蕉を迎えた時、14歳だったそう。
↓みのわ呉服店前の案内碑↓芭蕉逗留・泉屋の址ー桃妖ゆかりの宿ー
元禄2年(1689年)秋、松尾芭蕉は「奥の細道」の途中山中温泉に立ち寄り長谷部信連公ゆかりの「泉屋」に八泊九日間を逗留し旅の疲れを癒した。この宿の主人久米之助はまだ14歳の若者であったが、その才能と将来性を芭蕉に認められ《桃の木の其の葉ちらすな秋の風》の一句とともに芭蕉の俳号「桃青」の一字をいただき「桃妖(とうよう)」の号を贈られた。以来、蕉風発展につとめ多くの俳人達が、この地を訪れ、加賀俳壇にその名をなした。
↓芭蕉逗留・泉屋の址
《湯の名残今宵は肌の寒からむ 芭蕉》
↓《旅人を迎に出ればほたるかな 桃妖》
↓《湯の名残今宵ハ肌の寒からむ》
↓山中座に展示してある木像芭蕉像↓菊の湯と山中座の間にある時計塔。時を告げる時刻になると山中節を踊る仕掛け人形が出現する。
↓菊の湯裏に早朝出現するコーヒーボランティアのおばさんたち。
↓「旅行の方 思い出の1ページに!無料です お気楽にどうぞ!!」 ボクも無料でご馳走になった。
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