2015年5月6日水曜日

〇5/6(水)晴。新庄往復、最上川沿いに下り、羽黒山に登って芭蕉が7泊した南谷を探訪。月山・湯殿山は雪で未だ登れないことが確定。

5/6()晴。朝七時、道の駅尾花沢を出発し真っ先に新庄市に向かった。新庄に芭蕉の痕跡を、今のボクの知識では何も発見できないことは分かっていたが、それでもとにかく芭蕉の奥の細道の経路を忠実に辿るべく行かなければならなかった。奥の細道を読むと、芭蕉は山寺から最上川の川湊だった大石田に出て、そこから舟で最上川を下ったかのようになっている。が、違う。曾良の随行日記に真相が書かれている。芭蕉は大石田で舟に乗らず、馬に乗って新庄まで脚を延ばしているのだ。新庄で二泊している。何故新庄の事を、芭蕉はバッサリ削って無に帰させてしまったのか。何か隠された真相がある筈。ボクは何の手掛かりもなくして行ったところで意味がないのは分かっていたが、とにかく新庄に行かねばならなかった。行ってみたら意外な感動的発見に出遭った。新庄の街から北の方に、鳥海山が雄大に見えたのだ。ボクは鳥海山を秋田県の山だと思っていたが、実は山形県北端に位置する山だった。新庄も山形県の北に偏って在る。芭蕉は鳥海山を見たかったのではないか。日記によると、新庄を立った日は晴とある。鳥海山を見れた可能性はある。が、見れても未練の残る心象風景だった。このあたり、芭蕉の旅の行先・行程には迷いがある。象潟行きが最終決定された契機に、鳥海山を背に見て新庄を後にした未練が作用した可能性はある。象潟へは、鳥海山を常に間近に見ながら行く。象潟の心象風景を文学的に完成させるためには、新庄で見た半端な後ろ背の鳥海山の姿を見ていなかったことにした方がすっきりする。心象風景の文学的構成に、芭蕉ほど意を用いまた長けた達人はいない。その芭蕉が新庄での二日間を亡きものにしたのは何故か。筆を惜しんだ訳では決してない。
新庄を後にした芭蕉は、本合海(もとあいかい)という川湊から舟に乗って最上川を下ったらしい。大石田から川湊が名木沢・舟形と繋がって本合海に至る。この間の最上川は360度近い蛇行を五、六回連続して繰り返すという奇観を呈している。大蛇がのたうち回っているようだ。
〇舟形の蛇行を見た。
〇本合海の蛇行も見た。
〇芭蕉が舟から眺めた「仙人堂」
〇「白糸の滝」も見た。
〇芭蕉が舟を下りた清川の船役所も見た。
〇清川で親切なおばさんに出遭って色々教えてもらい、そこから芭蕉が辿った通りのコースで羽黒山麓の手向(とうげ、と読む。修験者の宿坊が軒を連ねている)に出ることができたし、また手向の住人で芭蕉の門人であった《呂丸(俳号)》の辞世の句碑を発見できた。奇跡に近い。呂丸は、芭蕉真筆の手紙の中にも登場する人物。
〇羽黒山の石段を三分の二まで登り、南谷にあった院の跡を探訪した。石段から500mほど谷筋に入る。芭蕉はその院で、出羽三山滞在中の十日間のうち七日間を過ごした。厚遇を受けた。今は全く何もないが、最近・手向の青年団が池の整備をしてくれたりしているそう。確かに立派な寺院が在ったような感じが出ている。それにしても二千数百段ある石段の三分の二まで登ったのだ。最後は完全に死んでいた。南谷に着いたときは生き返ったように嬉しかった。芭蕉の句碑もあり、今日の旅の目的の大半はここで果たせた。
〇残り三分の一の石段を残して一旦下に下り、セレナで有料道路を上がって羽黒山頂に行った。石段はそれ以上登ると本当にヤバかった。山頂に出羽三山神社があるがその境内にも芭蕉の句碑と立派な銅像が立っていた。
〇羽黒山の麓に「いでは(出羽のことらしい)歴史資料館」がある。この存在も清川の例のおばさんに教えてもらった。ここの受付の女性が親切で、ボクの要請に応えて奥の細道関連の資料を整えてくれた。その中でも「尾花沢市歴史散歩の会・監修梅津保一」氏の資料が絶大な価値を持つ。有り難いもの。それと、受付嬢が教えてくれたことが今回の流浪の旅の展開を決定づけてくれた。「月山と湯殿山は例年六月まで雪が残るため入れませんよ」
 貧血(高山病)で、芭蕉が実行してみせた月山と湯殿山登頂なんぞはボクには無理だと嘆いて頭を痛めていた一件がとりあえず今回は回避された。それに日程も無理になってきていたのが頭痛の種だった。一挙に明日鶴岡・酒田を経由し象潟探訪を終えられる可能性が出てきた。どうか気象条件が好くありますように。鳥海山が綺麗に見えないと行く値打ちが下がる。
今夜は鶴岡市の近くの道の駅・みかわ(三川)で泊ります。二回目ですが、スーパーマーケット横づけで大変結構です。蛋白質の食材を買いました。

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