2015年5月5日火曜日

〇5/5(火) 山寺・立石寺《閑さや岩にしみいる蝉の声》、最上川大淀「真下慶二美術館」、最上川大石田

5/5(火、子供の日)快晴。朝八時半、道の駅尾花沢発。十時半、天童市「山寺・立石寺」着。心臓はもったが、脚が老衰。貧血がひどい。芭蕉は頑張る。《閑さや岩にしみいる蝉の声》の名句ができた。ボクは正午過ぎに下りて来た。芭蕉一行は、山寺から天童を経て大石田に出た。ここから最上川の舟便を利用しようとした。大石田に最上川の船役所があった。
〇船役所跡が残っていたので探訪。
大石田では芭蕉は高野一栄という門人の世話になったのだが、
〇西光寺という時宗の寺に、芭蕉と一栄の句碑があった。この寺に芭蕉のそれは小さな銅像もあった。この寺の芭蕉の句は《五月雨をあつめてすゝし最上川》
〇曾良随行日記によれば、芭蕉は大石田で黒滝山・向川寺に参詣している。その寺も探訪。
《奥の細道》の最上川のくだりには「ごてん」「はやぶさ」などの恐ろしき難所の記事が出てくるが、芭蕉は「碁点」「隼」などの難所を体験したわけではなさそう。しかし折角なのでボクは最上川三難所を巡ってみようとしたが、今回行けたのは「碁点」だけ。他の二箇所は以前最上川を上流から下流まで辿った時に見分しているんだが、ボクだけ見分して悦に入っていても仕様がない。そこで好いことを思いついた。三難所の近くの大淀と云う絶景ポイントに「真下慶二美術館」がある。真下慶二は終生最上川を描き続けた画家だった。難所の絵もある。美術館に寄って絵葉書を全部買って来た。難所の絵も勿論入っている。芭蕉にも見せて上げようという魂胆。妙策。画家の奥さんは、十年前と変わっていなかった。
《奥の細道》と《随行日記》を幾ら読み合わせても、芭蕉と曾良が大石田を舟で発ったのか・それとも馬に揺られて出たのかよく分からない。行き先は新庄だった。新庄に行くには途中まで最上川の舟便を利用する手はある。ボクは今日、新庄までは行こうと思っていたが、夕暮れが迫って来たので新庄の手前、道が最上川から離れる舟形を過ぎた所でカーナビで最寄りの道の駅を探った。すると何としたことか「道の駅・尾花沢」(昨夜泊った)が最寄りと出た。今日一日何のことはない、南下して北上してほぼ元の位置に戻ってきたわけだ。芭蕉も何のことはないと思ったんではないか。このあたり、芭蕉に旅の行き先や段取りに迷いが出ていたと思われる。
明日は、芭蕉が新庄に行ったことは確かだから(奥の細道には新庄の記述は全くないが、曾良の随行日記には確かに具体的に記述がある。この場合、創作文学よりも日記の方が正しい)とにかく新庄に向かう。随行日記によれば、芭蕉一行は新庄で二泊しているんだが、新庄を発ってから南下し、最上川の舟便をどこから利用したのかはっきりしない。舟形か・元()合海か。

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