『六月三日、羽黒山に登る。図司佐吉と云う者を尋ねて、別当代会覚阿闍梨に謁す。南谷の別院に舎して、憐愍の情こまやかにあるじせらる。四日、本坊にをゐて(おいて)俳諧興行。
有難や雪をかほらす南谷 』
↓ 南谷に行く道
↓ 右に折れると南谷。石段を登って行くとやがて三の坂。
↓「史跡南谷これより500米」
↑「羽黒山南谷について ここから右手の小道約500m入ったところに県指定史跡南谷があります。南谷は俳聖松尾芭蕉が奥の細道行脚の際、門人曾良と六日間逗留し、一句吟じた場所です。今から約300年前、時の羽黒山執行別当(最高責任者)天宥訪印が拓きました。当時、羽黒山頂にはいくつかの寺院が在り、本社・寂光寺(今の三神合祭殿の前身)が類焼するのを防ぐためそれらの寺院を山内に下ろして移築しました。寛文2年に築かれた南谷の紫苑寺もその一つで豪華絢爛な大寺院でありました。しかし、奥の方に位置するため、何かと不便だったので、自然に迎賓館のような機能を果たすようになり、いつしか別院と呼ばれるようになりました。芭蕉の滞在所にあてられたのも、こうした関係からです。その後、文政年間(江戸中期)に覚諄(かくじゅん)別当がこの地の静寂を愛し、しばしば句会を催したりしました。覚諄別当隠居後はほとんど足が踏み入れられることはなく、庭園も荒れ、建物もいたみ、ついに倒壊してしまったので、その跡には八幡坂上(今の三の坂の上)にあった玄陽院という寺を移し、秋の峰の一の宿に当てられるなどしました。その後、明治の神仏分離の際、全て倒壊され、今残っているのは玄陽院の一部の礎石のみです。覚諄別当が建立した松尾芭蕉の《有難や雪をかほらす南谷》の句碑があり、最近では環境省認定かおり風景100選にも選ばれ、俳句愛好者も多数訪れています。また、芭蕉来山当時の南谷の風景を復元しようと地元・手向(とうげ)の若者を中心としたボランティアの人々により心字池等が整備・復元されたので、院をめぐって池を配し、周囲の自然を巧みに取り入れた閑寂幽邃の面影を偲ぶことができます。」
↓「南谷→」
↓「県指定史跡・羽黒山南谷」
↓ぬかるみの奥に心字池がある。
↓手向町の青年団等によって復元された心字池
↓「芭蕉の句碑」
《有難や雪をかほらす南谷》
↓芭蕉句碑側面「西大路三位隆明卿染筆」。「西大路三位卿」とは「覚諄別当」(別院中興者)のことらしい。ということはこの句碑は、近時ボランティアの手で・草木に埋もれた南谷が再び開鑿され陽の目を浴びるまで人の目から隠され草木に覆われていた。
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