2015年6月28日日曜日

〇《奥の細道》紀行・出羽路(28) 鶴岡市(一)芭蕉逗留地「長山重行邸跡」

奥の細道》より、
羽黒を立ちて、鶴が岡の城下、長山氏重行と云ふ物のふ(武士)の家にむかへられて、俳諧一巻(ひとまき)有り。佐吉(=呂丸・露丸)も共に送りぬ。』
曾良随行日記》より、
十日 曇。‥‥。昼前、(羽黒山)本坊に至りて、蕎麦切り・茶・酒ナド出。未の上刻(ひつじのじょうこく・午後1時40分頃)ニ及ブ。‥‥。佐吉(呂丸・露丸)ノ宅ヨリ翁計(ばかり)馬ニテ、光堂迄釣雪送ル。佐吉同道。々(道々)小雨ス。ヌルヽ(濡るる)ニ不ㇾ及。申ノ刻(さるのこく・午後4時頃)、鶴ヶ岡長山五良右衛門宅ニ至ル。粥を望み、終りテ眠休シテ、夜ニ入りテ発句出テ一巡終ル。』
↑「奥の細道・長山重行宅跡地 出羽三山を巡拝した俳聖松尾芭蕉は、元禄2年(1689)6月10日、羽黒山を下って鶴岡城下に住む庄内藩士、長山五郎右衛門重行の屋敷に入った。芭蕉翁は三山巡礼の疲れからかすぐに休息したが、夜になって曾良・重行・呂丸と歌仙を巻いた。「めずらしや山をいで羽の初茄子」は其のときの翁の発句で、食膳に供されたこの地方の名産一口なす(民田なす)が目にとまったものであろう。翁は重行宅に3日間滞在し、13日に近くの内川船着き場から川船で酒田に向った。長山重行は、呂丸や岸本公羽と共に蕉門の俳人として、鶴岡俳壇に重きをなした人物である。重行は元禄13年に屋敷替えになるが、この辺りは今でも長山小路とよばれている。」
 ↓「現在地」=長山重行宅跡地の上に「日枝神社・芭蕉句碑」があり、すぐ下に「芭蕉乗船の地」がある。いずれもこの後探訪する。
↓ 小さな神社の背後に、長山重行邸跡がある。ここに至れたのは全くの偶然。鶴岡の街に入ってはじめ全然見当がつかないので、先ずはJR鶴岡駅に行ってみた。観光案内板に表示があるかと期待して。が、全く無視されていた。仕方なく駅前からまっすぐ伸びる道を進んでみた。その道が変則丁字路にぶつかった時、ちょっと迷って右にハンドルを切ったら進路左側に口をあけた小路の入口に「長山重行邸跡」の案内が小さく出ていた。入るとセレナ一台ギリギリの小路。それを右折し左折する。そしてたどり着いたのがここ。
 ↓長山重行邸跡

 ↑↓「奥の細道・芭蕉滞留の地」石碑
 ↓芭蕉句碑
 《めづらしや山をいで羽の初茄子
↓ 日枝神社前に発見した案内標示。

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