〇《曾良随行日記》の記載によれば、5月17日昼過ぎに尾花沢の鈴木清風宅に着きそこで一宿した。そして27日まで芭蕉と曾良は尾花沢に滞在した。その間、芭蕉と曾良は清風宅に三泊、養泉寺に七泊し、その間に歌仙二巻を巻き、清風や地元の俳人たちに様々にもてなされた。その中には、新庄から駆けつけた渋谷甚兵衛・風流、大石田から駆けつけた高野平右衛門・一栄らもいた。このあと出羽路の旅で、芭蕉はかれらを頼って大石田・新庄にも脚を延ばすことになる。
↓芭蕉七泊の宿・養泉寺
↑「おくのほそ道ゆかりの地 天台宗・養泉寺 上野寛永寺直末(じきまつ)、旧堂は元禄元年(1688)に新築、芭蕉は「ほくのほそ道」の途次、月山・鳥海山を望むこの寺に七日間くつろぎ、自由に諸俳士と交流した。「涼しさを我宿にしてねまる也」の句碑(涼し塚)が宝暦十二年(1762)に建てられた。明治二十八年(1895)の尾花沢大火で旧堂は焼失、現寺観は同三十三年に再建され、最上三十三観音第二十五番札所となっている。境内には、昭和六十三年七月三日に建てられた「芭蕉・清風」連句碑もある。」
↑↓プロの作ではない。
ここは奥州馬の産地だった。
↓本堂
↓庫裏。芭蕉が訪れたときの面影は全くない。貧窮しているように見えた。
↑↓「芭蕉ゆかりの井戸 ‥‥寺は明治28年の大火で類焼して(芭蕉と曾良がこの寺に7泊した)往時の面影はなくなりました。この外井戸だけが当時を偲ぶ唯一のものであり人呼んで「芭蕉ゆかりの井戸」といいます。‥‥」
↓「涼し塚」
↑「芭蕉遺跡 養泉寺 寺は天台宗で芭蕉が来た元禄の頃は、東叡山の直末の寺院で格式も高く栄えていたが明治維新の変革と火難にあって今日に至った。芭蕉と曾良は、清風の深い配慮で修築直後で木の香も未だ新しく環境も静寂なこの寺院に寛ぎ、自由に諸俳士とも交遊し楽しく俳風を伝え、且諸情を練り七泊した、ゆかりふかい遺跡である。境内には翁の句碑があり「涼し塚」と称す。
涼しさを我が宿にしてねまる也 芭蕉 」
↓《涼しさをわか宿にしてねまる也》
↓「十泊のまち尾花沢 芭蕉翁」
↑↓《すゞしさを我やどにしてねまる也 芭蕉
つねのかやりに草の葉を焼 清風
鹿子立をのへのし水田にかけて 曾良
ゆふづきまるし二の丸の跡 素英》
尾花沢・清風亭に於ける歌仙《すゞしさを》である。
〇尾花沢・清風亭で巻いたもう一巻の歌仙「おきふしの」《おきふしの麻にあらはす小家かな 清風
狗ほえかゝるゆふだちの蓑 芭蕉
ゆく翅いくたび罠のにくからん 素英
石ふみかへす飛こえの月 曾良》
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