『六月三日、羽黒山に登る。図司佐吉(=呂丸)と云う者を尋ねて、別当代会覚(えかく)阿闍梨(あじゃり)に謁す。南谷の別院に舎(やど)して、憐愍の情こまやかにあるじせらる。‥‥』
《曾良随行日記》より、
『‥‥(清川から)一リ(里)半、雁川(狩川)。三リ(里)半、羽黒手向(とうげ)荒町。申ノ刻(さるのこく、午後四時頃)、近藤佐吉(=呂丸)の宅に着く。本坊ヨリ帰リテ会ス。本坊若王寺別当執行代和光院ヘ、大石田平右衛門より状ㇾ添(そえじょう)。露丸(呂丸だろう)子ヘ渡す。本坊へ持参、再帰りテ、南谷ヘ同道。‥‥』
〇羽黒山麓の「手向(とうげ)」には、出羽三山修験道独特の宿坊が連なる。この手向の街道脇に、ボクは奇跡的に「呂丸」の石碑を発見した。呂丸は、芭蕉とその《奥の細道》道中で逢い、門人となったが、京都で客死した。芭蕉はその死を深く悲しんだが、その悲しみ方は尋常でなかった。そのことは、「尾花沢芭蕉清風歴史資料館」所蔵の芭蕉真筆の手紙に表れている。
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↓〇「郷土の俳諧師・呂丸辞世句碑入口」 この石碑を発見したときは目を疑った。
↓「烏寄稲荷神社」
↓左・拝殿本堂、右端・句碑
↓呂丸辞世句碑
《辞世 消安(きえやす)し都能(の)土に春乃雪 図司・呂丸 寛政五》
↑「呂丸・近藤佐吉略歴 近藤佐吉俳号呂丸、羽黒町手向荒町に住み図司姓も称した。佐吉染屋を本業となし俳諧に志す。俳聖芭蕉翁の奥の細道に「六月三日羽黒山に登る。図司佐吉と云う者を尋ねて別当代会覚阿闍梨に謁す。南谷の別院に舎(やど)して、憐憫の情こまやかにあるじせらる」とあるは遠く元禄二年の昔である。呂丸が芭蕉翁の俳論を書き留めた「聞書七日草」又呂丸俳書「うたまくら」は酒田市立光丘図書館に保存されている。呂丸は元禄五年芭蕉翁を慕い俳諧修業の旅に出た。その時貰ったのが「三日月日記」である。ついで京洛に至り元禄六年二月二日病のため京都で客死された。芭蕉翁いたく呂丸の客死を惜しみなげいてその消息を長文の書簡に認め鶴岡の俳人翁岸本八郎兵エ氏に送った。その書簡は現在鶴岡市本町一丁目児玉光弘氏所蔵する。この追悼碑は寛政五年呂丸没後約百年を経て当時の泊黒俳人等故人を偲び建立されたものである。」
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