『江山水陸の風光、数を尽して、今象潟に方寸を責む。酒田の湊より東北の方、山を越え、磯を伝ひ、いさごをふみて、其の際十里、日影やゝかたぶく比(ころ)、汐風真砂を吹き上げ、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中(あんちゅう)に模索して雨も亦奇也とせば、雨後の晴色(せいしょく)亦頼母敷(たのもしき)と、蜑(あま)の苫屋(とまや)に膝をいれて、雨の晴(はるる)を待つ。其の朝(あした)天能(よく)霽(はれ)て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先ず、能因嶋に舟をよせて、三歳(みとせ)幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木(おいき)、西行法師の記念(かたみ)をのこす。‥‥』
〇「花の上こぐ」 (伝・西行法師の歌)《きさがたのさくらは浪にうづもれて花のうへこぐ海士のつり舟》
↓ 今は道の脇にあって島には見えないが、往古は潟に浮かぶ島だったのだろう。それにしても「三年幽居の跡」にはとても見えない。こんな小さな島に三年も幽居できるものかッ。いつの頃から能因島と呼ばれるようになったのかははっきりしないそう。本来の呼称は文献に見られる「めぐり島」だったものが、元々伝えられていた能因法師伝承を踏まえていつとはなしに美化される形で「能因島」となったのではないかと、↑の「きさかたさんぽみち」は述べている。
↓ カン満寺の裏庭にある「西行法師の歌桜」。何代も生まれ変わっているのだろう。
〇《きさがたのさくらは浪にうづもれて花のうへこぐ海士のつり舟(伝・西行法師の歌)
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