《奥の細道》より、
『‥‥江上に御陵(みささぎ)あり、神功皇后の御墓と云ふ。寺を干満珠寺(かんまんじゅじ)と云ふ。此の所に御幸(みゆき)ありし事いまだ聞かず。いかなる事にや。此の寺の方丈に坐して簾を捲けば、風景一眼の中に尽きて、南に鳥海天をさゝえ(へ)、其の影うつりて江にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築きて、秋田にかよふ道遥かに、海北にかまえ(へ)て、浪打ち入る所を汐ごしと云ふ。‥‥』
《曾良随行日記》より、
『十七日 朝、小雨。昼ヨリ止みテ日照。朝飯後、皇宮山蚶彌(満)寺へ行く。道々眺望ス。帰りテ所の祭渡ル。過ぎテ、熊野権現ノ社ヘ行き、躍(おどり)等ヲ見ル。夕飯過ぎテ、潟ヘ船ニテ出ル。加兵衛、茶・酒・菓子等持参ス。帰りテ夜ニ入り、今野又左衛門入来。象潟縁起等の絶えタルヲ嘆ク。翁諾ス。弥三郎低耳、十六日ニ跡ヨリ追い来テ、所々ヘ随身ス。』
〇「汐ごし」 潟が海に通じていた箇所。今も大塩越と呼ばれる地がある。
↓「‥‥カン満寺の周辺一帯は、かつて九十九島といわれるたくさんの島々をうかべた潟であり、松島と並び称された景勝地であった。しかし、文化元年(1804)の大地震で象潟は隆起し、一夜にして陸地となった。‥‥」
↓羽越本線踏切を渡る。
↓ 「皇宮山・カン満寺」 左手に行くと、芭蕉像・西施像がある。
↓ 芭蕉像↓芭蕉句碑《象潟や雨に西施がねぶの花》
↓ 西施像
↓ 以前訪ねた時に咲いていたねぶの花。
↓ 奥に山門がある。
↓ 山門
↓鐘付堂と位牌堂
本堂
↓木登り地蔵
↓ 北条時頼のつつじ
↓ たぶの木
↓ 親鸞聖人腰掛石
↓ 舟つなぎの石。向かいの景色は能因島方面。芭蕉は能因島から「向う岸」に当たるここカン満寺に舟を寄せて、多分この石に舟を繋いで寺の裏庭に上がったことに、《奥の細道》ではなっているが、《曾良随行日記》を読むと多分事実は違う。芭蕉はここでも文学的効果を狙って虚構を交えている。
↓ 西行法師の歌桜。
《きさかたのさくらは浪にうづもれて花のうへこぐ海士のつり舟》
↓猿丸太夫姿見の井戸 猿丸太夫は《奥山に紅葉踏み分けなく鹿のこゑきく時ぞ秋はかなしき》百人一首の作者。
↓中央に「芭蕉翁」、左右に分けて「象潟の雨や」「西施がねぶの花」 これは現在伝わっている句形《象潟や雨に西施がねぶの花》と違う。初案だろう。
句碑側面に「宝暦十三葵未九月‥‥」と刻してある。
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