《曾良随行日記》より、
『二日 辰ノ刻(たつのこく、午前八時)、(築地村)立つ。喜兵方より大庄や(屋)七良兵ヘ(衛)方ヘ之(の)状は愚状に入(はいり)、返ス。昼時分より晴、アイ風出る。新潟へ申ノ上刻(さるのじょうこく、午後三時半過ぎ)、着く。一宿ト云え、追込み宿之外ハ不ㇾ借(かれず)。大工源七母、有ㇾ情(なさけあり)。甚持賞ス。
〇三日 快晴。新潟を立つ。馬高ク(料金が)、無用之由、源七指図ニ而(て)歩行ス。申ノ下刻(さるのげこく、午後四時半頃)、弥彦ニ着ス。宿取りテ、明神ヘ参詣。』
◎「アイ風出る」 この一語で、芭蕉と曾良は築地・新潟間を船便を利用したことが推察される。実際この時代、築地村と新潟間は潟や川の水路で繋がれていた。アイの風は、春から夏にかけて日本海の沖から吹く穏やかな風で、新潟に向うには順風。
→リンク先
http://www.ne.jp/asahi/m.mashio/homepage/okuhoso-47.html
◎「明神へ参詣」 弥彦神社に参詣した。
↓「弥彦神社」
↓神橋
神馬舎
斎館
舞殿
↓摂社
重文・十柱神社
神門
神門潜る
拝殿
本殿・奉殿
★「追込み宿之外ハ不ㇾ借(かれず)」←芭蕉が越後路嫌いになった原因その一。宿の紹介状は余りにお粗末だったので返戻していた。その結果か、新潟では、大工・源七の母の情を受けるまではまともな宿から相手にされなかった。多分、芭蕉の旅装がみすぼらし過ぎて乞食坊主と思われた。この後も原因が行く先々で二、三と続いていくので要注意。
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