2015年11月24日火曜日

〇11/22(日)大垣市青墓「円興寺」

〇「円興寺。延暦9年、最澄(伝教大師)が大谷の里(青墓)の大炊(おおい)氏の帰依を得て山頂に寺を創建し、聖観音立像を本尊として円興寺と号した。その当時の七堂伽藍の金堂は七間四面の荘厳なもので、その他坊舎・末寺等百余ヵ寺、寺領五千俵と伝えられる。天正2年(1574)織田信長に焼かれ、田之堂を経て万治元年(1658)この地に移し建てられた。
〇青墓には二度目の来訪。円興寺も二度目。一度目に、近く西の方に国分寺、美濃国分寺跡がありそれらも訪ねた。奥の細道紀行の折、近く東の方に芭蕉も訪ねたという明星輪寺を訪れた。
↓かつて山頂にあって七堂伽藍を備えていた当時の円興寺の有様。右上の山頂にあった。遺蹟としては、仁王門跡・鐘楼跡・御堂跡・講堂跡・金堂跡・僧坊跡などが発掘されている。境内に源朝長公の墓が今もある。
↓左上に本堂が見える。
↑↓梁塵秘抄の石碑がある。後白河法皇が青墓出身の今様の名手「乙前」(既に74歳の老婆だった)の弟子となって編んだ。青墓出身の今様の名手が他にも幾人か登場する。梁塵秘抄と青墓の縁は切っても切れない。
↓奥に庫裏・書院がある。
↓本堂

↓本尊は木造聖観音立像。「一般公開していません」と案内されているが、本尊の写真を展示してくれているのが有難い。
↓重文・木造聖観音立像 像高は140.7cm。檜の一木彫り。

↓源朝長公の墓が、山頂の旧円興寺跡にある。
源朝長公は、源氏の棟梁・源義朝公の二男で鎌倉幕府を開いた頼朝公の兄であります。平治の乱にて武運及ばず敗戦し、義朝公一行は再起を計る為、東国を目指し源氏と縁の深い青墓の地まで辿り着きますが、朝長公は敗走中に深手を負い、平家の追討から逃れられないと悟り、この地で父の介錯(自害)により、齢16年の生涯を閉じました。」
↓大垣市立青墓小学校の児童たちが描いた絵。

↑現在地・円興寺の下(東)に明星輪寺がある。
左上(西南)に国分寺と国分寺跡がある。国分寺跡付近に美濃国の国府があった。国府の南に今もあるのが南宮大社(国府の南にある神社という意味)。美濃国の国府は随分と西に偏っていたもの(関ケ原に近い)。
リンク先「美濃国分寺跡」http://takashikun.blogspot.jp/2012/06/blog-post_9177.html


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