2016年2月10日水曜日

〇《佐渡相川金山》

〇宗太夫間歩(まぶ、坑道のこと)入口
 ↓間歩(坑道)

 ↓右奥に記帳役がいる。人夫の出入を記帳。左手前は少年。坑内では15歳位の子供も働いていた。手に持っているのは照明用の油桶で灯油の補給に廻っている。タガネ・鉱石の運搬など軽い雑用にも使われた。
 ↓休息所。採掘作業は4時間ごとの交代制だった。金穿大工は他の坑内労働者と違い、技術者として処遇されていたので、食事や休憩の時間がとれ、筵(むしろ)の上で横になることも出来た。
 ↓無宿人。江戸後期の1778年から幕末までの約90年間、江戸や大阪、長崎の無宿者が水替人足として佐渡金山に送られて来た。記録によるとその数は1874人とも言われており意外と少ない。
樋引(といびき)人夫と水替人足。 坑道が深くなると出水量が増え排水が必要となる。水上輪などを操作するのが樋引人夫、つるべや手桶で湧水をかい出す重労働をするのが水替人足。水替人足には、江戸時代後期に僅かの人数(約90年間で1874人)ではあったが、江戸・大阪などから無宿人などが送られた。
 〇「道遊の割戸」 割れ目がその昔金鉱脈を掘った跡。
 ↓金を製錬した跡
 〇相川奉行所跡

〇無宿人の墓

 ↑「水替人足(無宿)の墓 嘉永6年の建立。坑内作業中に死んだ28人の生国、戒名、名前、年齢を刻んである。わずかな時間で滅んだ君ら、穴ぐらしの過去・未来を圧せられ、5年ともたなかった、‥不明‥長崎の天領地から1800余人の無宿者が目籠で送られた。失職・流浪のはてに、幕府の治安対策で捕らえられた若者たちである。ほとんどが相川で死んだ。

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