↓左端を流れるのが五十鈴川。五十鈴川が左下で二股に分かれている。この二股の中の地域が二見地区。
↓五十鈴川が二股になる地域を拡大。中央に「西行庵記念碑」「安養寺跡」「西行庵の伝説地」の記載がある。★西行庵記念碑があったのだ。いつかまた見に行かねば。
↓発掘調査位置図。赤塗部分が安養寺跡。
↑「安養寺跡の遺構 発掘調査(平成4~5年)では、地表面に近い上層(新しい時期)と下層(古い時期)の二層で遺構確認が行われました。出土した土器の形式から、下層の遺構(Ⅰ期)は平安時代後期の12世紀第三四半期から13世紀前葉まで、上層の遺構(Ⅱ期)は鎌倉時代前期の13世紀前葉以降の時期のものと考えられます。このことから、Ⅰ期は西行が伊勢に逗留したとされる時期と一致し、Ⅱ期は西行没後の時期にあたります。下層遺構(Ⅰ期)からは、当期のものと特定できる建物跡は確認されず、池状遺構とその西方から溝2条のみが検出されました。池状遺構の埋土からは、墨書された木製品や僧侶のような人物が描かれた板など特殊な遺物が多数出土しています。上層遺構(Ⅱ期)からは礎石建物3棟、掘立柱建物2棟と多数の区画溝が確認されました。溝の埋土からは、土師器、山茶碗などの土器、箆(へら)・下駄などの木製品や建築部材など多くの遺物が出土しています。」
↑↓安養寺跡・西行庵伝説地。開発されている。この地域に西行公園が作られる計画があるようだ。
↓道を挟んだ向かい側は完全に分譲宅地に開発され、売出しの看板も立っている。
↓開発された町の名は、光の街
↑「西行と伊勢二見のかかわり 諸国を行脚した西行(1118~1190)は伊勢を何度か訪れ、鈴鹿山を越えて伊勢に入ったり、熊野の新宮から伊勢に向かったりしたことがあり、その回数は少なくとも二回以上と考えられます。晩年にあたる63歳(1180頃)から69歳(1186)までの約6年間は伊勢二見浦に移り住んでいました。『千載和歌集』の西行の和歌の詞書に「高野山をすみうかれてのち、伊勢国ふたみのうらの山でらに侍りける」とあることから、西行は、伊勢二見浦の山寺に来る直前は高野山に住んでおり、何らかの理由で高野山を離れざるを得ない事情があったと考えられます。『西行法師歌集』の詞書に「福原へ都うつりありときこえし此、伊勢にて月歌よみ侍りしに」とあり、治承4年の福原遷都の噂を伊勢で聞いていることから、この頃には既に伊勢での生活が始まっていたとみられます。西行が伊勢に移住した理由には諸説ありますが、同4年の以仁王による平家追討の令旨で始まった都での騒乱が背景にあり、西行を師と仰ぐ神宮の神官たちの歓待があったことも一つの要因であると考えられています。伊勢二見浦の山寺での生活ぶりは、西行の弟子で神宮の神官であっ荒木田満良(出家して蓮阿と名乗る)の『西公談抄』によると、床には浜荻を折り敷き、水を入れる窪みがある自然石を硯として使い、花籠を文台代わりにしていたような簡素なものであったようです。西行が伊勢に移ったのその頃、南都では、平重衡による焼打ちによって東大寺が炎上したことから、重源らがその再建に立ち上がり、浄財を得るため諸国を勧進することになりました。大仏殿再建の九年前にあたる文治二年四月、重源ら東大寺衆徒一行七百名が祈願のために伊勢を訪れ、二見の天覚寺で五日間ほど逗留していることから、この時、重源は西行と会い、奥州藤原氏に対する砂金勧進を要請したと考えられています。大役を引き受けた西行は、ついに伊勢を離れる決心をし、奥州に向けて旅立ちました。ちょうどその頃、一足違いで鴨長明が伊勢を訪れ、「西行法師住み侍りける安養山といふ所」で一首の歌を残していることから、西行が住んでいた伊勢二見浦の山寺というのは安養寺であったことがわかります。奥州の旅から戻った西行は、同三年(1187)に京都の嵯峨で草庵を結び、人生の総決算ともいうべき『御裳濯河歌合(みもすそがわうたあわせ)』『宮河歌合(みやがわうたあわせ)』を相次いで編み、それぞれ皇大神宮、豊受大神宮に奉納するなど、伊勢での暮らしや体験が、生得の歌人の晩年に与えた影響は大きく、『千載和歌集』には18首、『新古今和歌集』には個人として最高の94首が入集するという偉業を成し遂げました。西行が去った安養寺も鎌倉時代に入ると廃寺の憂き目に遭い、西行没後、150年ほど経った1342年、連歌師であり医僧でもある坂十仏(さかじゅうぶつ)が安養寺跡を訪ね、『伊勢太神宮参詣記』に「哀れに心すごき古寺あり。安養山と申所也。是は西行上人の住侍ける旧蹟とかやぞ承る。」と記しています。このように、寺は途絶えても西行の名声は語り継がれ、安養寺跡を訪ねる文人は少なくありませんでした。」
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