〇荒木村重は信長軍に包囲された有岡城を家臣数名と共に脱出し、嫡子が守る尼崎城に走った。そこでボクも、有岡城跡から尼崎城跡に走ってみた。その間距離は17~18km。城跡を発見するのは至難だったが、何とか辿り着いた。
「尼崎城址公園」〇この尼崎城址は、戦国時代の尼崎城跡ではなく、江戸時代初期に尼崎藩主になった戸田氏が築造した尼崎城の跡だという説がWikiに説かれている。村重が逃げ込んだ城は大物城と呼ばれたそう。
↓左側の煉瓦造建物は阪神電鉄車庫。
↓一部の石垣と塀が復元されている。
〇現在復元されているのはこの石垣と塀だけ。天守閣の建設計画もあるようだ。事業成功者が10億円を寄付するという。
この尼崎城は今は市街地の真ん中になったが、その昔は河口のデルタ地帯に位置し船が直接城に横づけできたという。大物城も直接海に船で脱出できる位置に在ったそう。この戦国時代の大物城の遺跡調査の関心機運は尼崎市民には乏しそう。
村重は船で尼崎城からも脱出し、神戸市の花熊城に入ったがここも捨てて尾道まで逃げた。我が身独り生き延びて最後は堺で死んだ。晩年は、秀吉の御伽衆に加わっていた。秀吉が村重の晩年をどう見ていたか、一言残して欲しかったもの。
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