〇あれこれ検索していたらとてつもないものが見付かった。大田原市の《国宝・那須国造(なすくにのみやつこ)石碑》。この国宝を本尊とした「笠石神社」がある。栃木県の南端から北端に跳んで行くことになった。片道2時間。風変りなボランティアおじさんが予約客を待っていて、予約してないボクに解説してくれた。有意義な長い説明だった。この石碑は大宝律令(701年制定)ができる直前に刻まれたものだが、その内容が素晴らしい。字体も用語も文章分脈も何もかもが素晴らしくて国宝中の国宝。日本古代史の解明にどれだけの貢献をするものか、想像できない程。その国宝を御神体として祀る御堂を開帳して目の当たりに見せてくれるんだからその有難さに罰が当たらないかと恐れる程。こんな素晴らしい体験は生涯何度もあるものではない。拓本入手(2000円)
〇南の方・茨城県真岡市にとんぼ返りして「大前(おおさき)神社」を参拝。拝殿・本殿が県指定文化財。この神社の特徴は「日本一えびすさん」が境内に立っていること。これを筆頭に端々に集金精神が目立ってかえって有難味が薄れる。
〇夕暮れが迫る頃に辿り着いたのが何と下野市の「下野薬師寺跡」。この寺、ボクにとっては一番気になっていた謎の寺。古代に戒壇院(国立の正式僧免許授与所)は三つあった。奈良の東大寺、大宰府の観世音寺、そして下野の薬師寺。この下野薬師寺が東夷の住む地方にありながら、三つしか無かった国立戒壇を持つ寺の一つだったことも不思議だったが、この寺は図らずも古代史の劇的な場面で瞬間的に歴史の表面に浮かび上がる。弓削の道鏡の宇佐八幡宮の宣託事件の時である。和気清麻呂の策略で皇位簒奪に失敗した道鏡は左遷される。その先が下野薬師寺だった。この後この寺は忽然と歴史の表舞台から姿を消す。その所在地は定かでないとされてきた。それが今日、ボクの目の前に忽然と出現したのである。発掘調査の結果、西回廊角のごく一部の建物が復元され、また元戒壇院の位置に江戸時代から建っているとされる六角堂がポツンと建っていた。発掘されつつある寺院の規模はやはり広大なもの。幻の下野薬師寺にいきなり遭遇したのでボクは興奮し感動した。道鏡にも遭えたような気がした。
〇下野薬師寺で今夜泊る道の駅を探索したら何とたった2kmしか離れていない地点に道の駅・しもつけがあった。あっと言う間に着いた。が、夕食を買ってなかった。最寄りのコンビニを探索したら、これが何と12kmも離れた結城市にしかない。買い出しに出向いてそこで最寄りの道の駅を当って見たら、何と小山市の道の駅「思川(おもいがわ)」が浮上した。やはり12kmほど先。道の駅「しもつけ」に戻るのも癪なので「思川」に浮気してこちらにやって来た。今夜は成り行きでこちらで泊る。明日はどこを訪ねるか、ますます分らなくなってきた。
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