《曾良随行日記》『○四日 快晴。風、三日同風也。辰ノ上刻、弥彦ヲ立。 弘智法印像為レ拝。峠 より右ヘ半道計行。谷ノ内、森有、堂有、像有。二三町行テ、最正寺ト云所ヲ、ノヅミト云浜へ出テ、十四五丁、寺泊ノ方ヘ来リテ、左ノ谷間ヲ通リテ、国上へ行道有。荒井ト云塩浜ヨリ壱リ計有。寺泊ノ方ヨリハ 、ワタベト云所ヘ出テ行也。寺泊リノ後也。壱リ有。同晩、申ノ上刻、出雲崎ニ着、宿ス。夜中、雨強降。』
〇太字の像や地名の得体が知れなかった。朝七時七尾発、夕六時半帰着。それら不明点がほぼ解明できた。溜飲が下がった。
〇 弘智法印像とは、今から六百年前に即身成仏された上人のミイラ象。芭蕉はこの即身成仏象を拝する為にわざわざ弥彦山の峠を越えて行った。
〇峠までの道は今は弥彦スカイラインの一部になっている。芭蕉が越えた峠は猿ヶ馬場峠だと思われる。
〇この峠を下って日本海に出ると、そこが野積(のづみ、のぞみ)の浜。
〇野積に出る途中の峠からの下り道を右に折れて半道(一里の半分、2km)ばかり行くと、谷の内に森が有り・堂が有り・そして弘智法印像が有った。拝観した(500円)。
〇最正寺(さいしょうじ)という地名・寺院を具に徹底的に現地で探したが見当たらなかった。弘智法印像を安置する寺の名が西正寺(さいしょうじ)。当時は峠の途中一帯が「さいしょうじ」と呼ばれていたのだろう。曾良は当て字を使うことがある。
〇野積の浜を十四五丁(1500mほど)寺泊の方へ来ると、今は信濃川の分水の大河津放水路が日本海に注いでいる。そこの浜から一里ばかり上流にゆくと確かに国上(くがみ)という村がある。現にボクはその辺りの道の駅「国上」でひと時を過ごした。
〇大河津分水の河口に架かる橋が「野積橋」。その一つ上流に架かっているのが「渡部橋」。この大河津分水は芭蕉の時代には勿論なかった。ボクは渡部橋を渡ってみた。対岸には渡部の在所があった。バス停は「渡部口」「渡部」。寺泊の後ろ・一里といえばそういう位置関係。
△以上の解明を終えて帰宅したら、車庫でセレナ君の運転席ドアをまたしても逆ネジを食わしたように付け根をヘシ折った。ボクの不注意。これで二度目。今度こそセレナ君とのお別れの時かも。ボクの流浪の旅も終焉かも。
□ボクは明日から一週間心臓の検査入院。心穏やかならず。
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