〇朝八時、東北道・蓮田SAを発つ。宇都宮JCTから日光道に入り今市ICで下りた。世界遺産の寺社に着いた時はもう十時近く。駐車場には多分入れない。が、ボクには人の知らない不思議な公共の駐車場がある。十数台分が二箇所(×2)用意されている。人が知らないのだから必ず空いている。小雨が降り出したが雨の用意がなかったので普段着のまま歩き出した。目指すは大日堂跡。ここにボクがこだわるのは、芭蕉が日光を訪れた際必ず大日堂を訪れたはずだから。芭蕉は、裏見の滝で「夏(げ)の初め」の句を詠んでいる。曾良の随行日記によると滝見の時、大谷川(だいやがわ)のカンマンが淵に立ち寄っている。大日堂は二人の筆にかかっていないが、滝と淵の通り道にどうしても当たり、カンマンが淵の向かい岸にある。滝見の帰りにカンマンが淵に行くには大谷川を渡らねばならない。芭蕉のような詩人が大日堂にも立ち寄っていないはずがないと感ずる。芭蕉が立ち寄った場所に立つことができれば感無量というもの。そしてボクは大日堂跡に立つことができた。大日橋(歩道橋)が架かり、その下にあった。
〇本降りの中、室の八島と鹿沼の間に「金売り吉次」の墓を探した。前回は豪雨の中、手も足も出なかった。今回はnetで検索して研究済みだったので楽勝した。セブン・イレブンの店の傍に在るというので店を探したら店は容易に見つかった。その傍を探したら、まことに小さい祠だったが直ぐに見つかった。曾良の随行日記によると「金売り吉次」の墓を尋ねたことがメモしてある。芭蕉が立ち寄ったことが確かな所にボクモ御相伴できた。感無量。
〇芭蕉は日光から那須方面・玉生(たまにゅう)宿に向うに当たって、今市の宿の亭主の言を容れて日光街道を辿らずに日光北街道を歩いた。そのコースをボクは前回辿り損ねて鬼怒川温泉に出てしまった。戻って玉生(たまにゅう)宿行きらしき道を辿ったが、芭蕉が歩きそうもない山道だった。玉生宿に着くには着いたが遺憾だった。芭蕉が辿ったはずの日光北街道を辿らずにはおくまいという心掛けで今回は臨んだ。ところが道が変わり過ぎている。計画的な自動車道路に成り代わっている。芭蕉の時代の道を辿るのは至難。何とか「小室」「大渡」「船場」などの地名の土地を探索してそれらを繋いで昔の日光北街道をそれらしく復元した。今は「大渡橋」が架かっているが、未だ渡船場時代にバスが客を渡船場まで乗せて来て引き返していた確かな痕跡(バス停標識)も発見。芭蕉と曾良が歩いた道だと思うと感無量。
〇六時半「道の駅・やいた」に到着。矢板。明日は白河の関で芭蕉と曾良の銅像の写真を撮る。
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