2017年6月7日水曜日

〇6-3(土)京都府大山崎町「天王山・幕末長州17烈士の墓」

↓天王山△の下に赤字で現在地と書いてある所が宝積寺。
 ↓宝積寺本堂横の天王山登山口


 ↓途中の展望台から。大阪方面。淀川が見える


 ↓酒解神社の鳥居が出現
 ↓鳥居の前の旗立松展望台。旗立松の真下に名神高速天王山トンネルが通る
 ↓展望台からの眺望。京都方面。山崎の合戦の主戦場が丸見え

↓「天下分け目の[山崎合戦跡地]
 ↓中央東西に流れる小泉川を挟んで上に光秀軍、下に秀吉軍が布陣
 ↓とうとう十七烈士の墓に接近
 ↓この石段を昇ると着く
 ↓十七烈士の墓、側面
 ↓「十七烈士の墓(維新の史跡) 幕末王政復古の運動を推進した長州藩が、文久3年(1863)8月18日の政変のため、三条実美以下七卿と共に京都を脱出し、しばらく本国に退いた。このとき筑後水天宮神官真木和泉守始め尊王攘夷の志士たちは、長州藩の京都回復運動に同調し、清側義軍を編成して元治元年(1864)夏、長州藩軍兵と共に上京し、ここ山崎に布陣した。その強硬な上京軍に対し、幕府側は遂にこれを追討することを決したが、坂に上京軍は伏見・天竜寺及び山崎の三方から進撃を開始した。かくて御所の幕府軍との間に激しい戦いが展開されたが、上京軍は蛤御門(はまぐりごもん)・堺町御門において敗れ、退却を余儀なくされた。この山崎に退いて長州藩主力兵の国元引揚げを見送った真木以下17名は、禁裏のある京都の地を去るに忍びないとして天王山に登り、7月21日、幕府追討軍の来襲を前に、烈士揃ってこの地で壮烈な自刃をとげた。‥‥」
↓烈士の墓、正面

 ↓「真木和泉守保臣先生没後150年天王山十七烈士奉賛会」
〇自玉手祭来酒解神社はもう近い、それも水平方向に在る

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