〇平時忠は平家滅亡時・大納言で政権№2の地位にあった。平家の血は流れておらず、姉が清盛の妻。妹が後白河天皇の女御となり高倉天皇を生んだ。壇ノ浦で生きて捕縛され、能登国に流された。舟で来たと思われるが、辿り着いたのは能登国珠洲郡大谷海岸だった。ここから谷筋を奥に進んで狭い平地を開墾して定住したと思われる。ボクは若い時から平時忠の墓を探訪するのを念願としていた。それを70歳にして漸く達成した。
↓国道から谷底に降りる。和歌「白波の打ち驚かす岩の上に 寝らえで松の幾夜経ぬらん」
↓和歌「わけてゆく山路の雪はふかくとも とく立ち帰れ年にたぐへて」
↓谷底に到達
↓「県指定史跡・平時忠卿及び其の一族の墳」
↓「県指定史跡・平時忠卿及び其の一族の墳 珠洲市大谷町則貞地内 この石塔群は、平時忠一族の墓と伝承され、最も背の高い五輪塔が時忠の墓とされている。時忠は、代々朝廷に仕えた公家で、智略家として知られた。姉時子は平清盛の妻、妹滋子は後白河天皇の女御となり憲仁親王(後の高倉天皇)を生んだことから権勢を振い、正二位権大納言にまで昇った。また源義経は、娘婿でもあった。寿永4年(1185)壇ノ浦合戦で捕縛され、能登国配流となる。「吾妻鏡」によれば、文治5年(1189)2月24日配所にて没し、源頼朝もその死を惜しんだという。これに対し、時忠の末裔としてこの墓所を護持してきた則貞家の伝承では、源氏方の監視を逃れ、当地に居を定めて子をなし、元久元年(1204)4月24日に没したとしている。則貞家住居跡と当墓所の発掘調査の結果、住居跡は鎌倉時代初頭に遡るが、墓所は室町時代後半に整備されたものとみられる」
↓和歌「能登の国聞くもいやなりすずの海 また吹き戻せいせの神垣」
↓墓地の木戸
↓平時忠一族の墳墓。中央の一番背の高いのが時忠公の墓だと思われる
↓多分平時忠公の墓
↓二代目から平姓を「則貞」姓に変えている。鎌倉の源氏政権を憚ったのだろう
↓「勝利木戸跡」
↓木戸に続く邸宅跡。規模は小さい
↓「鞍干し場跡」。武家の矜持は失わなかったと見える
↓経塚跡
↓大谷海岸から入りこんできた谷。ここを開墾したものと思われる
↓谷の奥詰まり。この一帯に住宅や墓地が設けられた
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