今朝は7時半に出発した。雨の中。胎内市「中条(ちゅうじょう)」「黒川」を経て村上市「十文字」交差点を東に、荒川を遡上していった。今は新国道が荒川に沿ってほぼ一直線に鉄橋を渡り・トンネルを潜って行くのでイザベラもそんなに苦も無く米沢盆地の入口まで行けたのではないかと思うがとんでもない。彼女が旅した当時、荒川中流域までは谷も広やかで平坦地に道が拓かれていた。そこから先は今の国道ルートとは全く違う「十三峠」を越えていくコースを行った。ボクは「黒沢峠」の登り口まで行ってみたが、新道が開かれてから人跡が途絶えいつしか落葉や土砂に埋もれてその所在箇所すら分らなくなっていた。それを近時有志が再発見し道を掘り出すことに成功した。峠道は2・6kmにわたる敷石道だった。黒沢集落から上って峠を下ると、そこに在ったはずの「市野々」の集落は横川ダム湖の底に沈んでしまってこの街道は死んでしまっている。市野々からは「桜峠」を越えて「白子沢」に通じていたのだが、この集落は現存する。白子沢から「宇津峠」を越えて「手ノ子」に至ったが、このルートは宇津トンネルを潜る楽な旅に変更されている。手ノ子から今は南陽市に新道は通じているが、イザベラの時代には諏訪峠を越えて羽前小松に出るようになっていた。米沢盆地の北口。今も麓に「諏訪神社」が残っている。十三峠の大半は旅人に難行苦行を強いるものだった。イザベラも苦闘した。この小国街道の踏破のことにかなりの筆数が費やされている。その中に黒沢での奇怪な体験があった。白昼泥酔した女が半裸同然で道に出てきて管を巻いていたのだ。通訳として同行していた伊藤青年はそんな日本の女のふしだら姿を彼女に見せたくなかったと見えて、盛んに恐縮しながら弁解したという。その記事があったからボクはどうしても黒沢を訪ねようと思って探訪してみたら、往時の黒沢峠越えの道に遭遇する幸運に出会った。
午前中はこの小国街道の旧道の探索に走り回って過ごし、午後はひたすらイザベラが辿った北上ルートをできるだけその通りに下道を走って辿ってみた。赤湯・上山(かみのやま)・山形・天童・東根・楯岡(村上)・尾花沢・新庄・金山(かねやま)・及位(のぞき)・院内と北上した。米沢・山形盆地に入ってからは道は比較的平坦で、彼女の旅も大分楽になったと思う。
夕刻6時を回ったので今日は[道の駅・おがち(雄勝)小町の郷」で運転に終止符を打った。院内の北にある。北上を続けられるのは明日土曜日のみ。なのにかなりの旅程を残してしまって果たして青森まで辿り着けるかどうか疑問がある。が、できるだけやってみるつもり。
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