〇山古志闘牛場の入口を発見。手前下に大駐車場がある。
入口から闘牛場までの道の傍に絵と写真の大図が展示されている。この記事の後半で紹介する。↓いよいよ闘牛場
結構な回数の闘牛大会が開催される。山古志村だけで外に4箇所の闘牛場があるのだから大した開催回数となる。小千谷も闘牛が盛んだそうだし、その他の地域でも盛んらしいから、越後闘牛とは一体どれだけ開催されているものか想像もつかない。
東方闘牛の入場口
観覧席
西方闘牛の入場口
中央の決闘地
↓観覧席の裏面の板に、中越地震に負けずに復興するゾッという児童生徒達の決意表明が書かれている。
〇以下は、闘牛場の入口に展示されている絵や写真とその説明文。
↓上の説明文の現代語訳。
「須本太(伝説的闘牛)は力士(勢子)を角に突被けては空に投飛ばし、また反倒し、とても搦め取るどころの騒ぎではなくなった。技に熟れた力士たちも、この須本太の勢いには抗すべくもなく、東へなだれ西に靡き、ただあわてふためくばかりとなった。角連次(須本太の対戦相手か)を見失った須本太の方は暴れに虐て四方へ狂走し、あたるに任せて人や物を角に掛けて投げほうり始めた。猛威に恐れた群衆は老弱にかかわらず東西に奔走し、南北に逃げ迷った。(中略) だが小文吾(犬田小文吾・里見八犬士の一人)は少しも慌てず、岡のふもとの小松の陰で磯九郎が姿を見せるのを待っていた。そこへ小文吾を角に掛けようと、須本太が突然走りかかってきた。(中略) 龍種だ、とされている暴牛の勢いは当たるべくもない。だが犬田小文吾は少しも騒がず、自分に向って突いてくる暴牛を、ひらりと反すと、左右の手に角を捕駐めた。牛も負けてはいない.小文吾に角を捕えられたぐらいではひるまず、小文吾を押し倒そうと、四蹄が土にもぐり込むまで踏んばった。小文吾は小文吾で、一身の力を極め、一歩も退かず牛と挑みあう。(中略) 猛牛に蹴散らされて辟易としていた牛力士たちも、小文吾を見ると肝を潰し、あれよあれよと手を抗した、足を躍らせながら牛と小文吾の周りに集まって来た。だがさすがに牛を恐れて近くには寄れず、ただ呆然と怒牛と組合う小文吾を見るだけだった。そのうち小文吾は牛の疲れたところを見計らって、えい、と力声を上げながら牛を左に押すと、間髪を入れず、や、と右へ捩じ返した。相撲の技にかなった修練の早技である。さすがの猛牛も、この手並みには、放り出された小犬さながら地響きを立てて、どう、と仰反り倒れた。」
この文章は「南総里見八犬伝」の一節である。江戸時代、十日町の文人商人鈴木牧之が滝沢馬琴に頼まれて越後闘牛の観戦記を送り、馬琴はそれを参考にしたらしい。
↓これも鈴木牧之が描いた闘牛場観戦図らしい。やはり滝沢馬琴に送られた。闘牛場を大きくぐるりと囲んで凄い数の観衆が描かれている。
牛の巨大さと凄まじい闘志(目を見よ)に圧倒される。
↓「竹沢闘牛場」
↓「虫亀(むしがめ)闘牛場」
↓「池谷闘牛場」
↓「種苧原(たねすはら)闘牛場」
〇以上四カ所と山古志を入れて五か所の闘牛場が山古志村だけで存在する。
↓闘牛名勢子「文蔵」
↓伝説の横綱「★号」
↓「ひろし号」
↓「★号」
山古志闘牛場から下りてくると遥か南に越後三山が望めた。左から越後駒ヶ岳・中ヶ岳・八海山。
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