〇水戸天狗党は1000余名で挙兵し亰へ向かった。諏訪・和田峠を越え、木曾中山道を妻籠まで辿り、美濃路に至って、彦根・大垣藩軍の迎撃に遭い、進路を越前大野にとった。雪深い木の芽峠を越え、敦賀・新保宿に至って加賀藩軍の包囲に遭い降伏した。加賀藩は浪士軍を厚遇した。が、幕府軍に引き渡されると処遇が一変し天下の罪人にされた。ほどなく353名が斬首された。その余の者も遠島等の処分となった。刑場は、松原神社の向いの寺の境内。そこは今は、武田耕雲斎等の墓地とされ、史跡として整備されている。
↓気比の松原の一角に、松原神社がある。水戸天狗党員たちが祀られている。
拝殿
拝門と本殿
石碑。碑面は解読できない(ボクには)
↓水戸烈士記念館
にしん肥料蔵の残酷
加賀藩の厚遇から浪士が幕府に引き渡されると処遇は一変する。浪士は海岸沿いの船町の「にしん肥料蔵」に拘禁される。肥料倉の数少ない小さな窓も板打ちされ、倉の中央に排泄用の桶が置かれた。それは、俄か作りの獄舎であった。5、60名づつ各倉にに押し込められた。木製の足枷を嵌められ、食事もにぎりめし一つと白湯のみであった。暗闇、悪臭、何よりも雪国の寒気、劣悪極まった拘禁だった。即ち「賊徒」としての拘禁である。中にはこの虐待に怒り、一戦交えて死するべきだったと後悔する者も少なくなかった。他方、劣悪な拘禁によって20名以上の病死者も続出した。
資料館となっていたが、今は閉鎖されている。加賀藩の厚遇から浪士が幕府に引き渡されると処遇は一変する。浪士は海岸沿いの船町の「にしん肥料蔵」に拘禁される。肥料倉の数少ない小さな窓も板打ちされ、倉の中央に排泄用の桶が置かれた。それは、俄か作りの獄舎であった。5、60名づつ各倉にに押し込められた。木製の足枷を嵌められ、食事もにぎりめし一つと白湯のみであった。暗闇、悪臭、何よりも雪国の寒気、劣悪極まった拘禁だった。即ち「賊徒」としての拘禁である。中にはこの虐待に怒り、一戦交えて死するべきだったと後悔する者も少なくなかった。他方、劣悪な拘禁によって20名以上の病死者も続出した。
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