芭蕉と曾良は、29日朝7時頃に間々田宿を出て小山経由で壬生町にある歌枕《室の八嶋》に参詣。
《奥の細道》《★①室の八嶋に詣(けい)す。同行曾良が曰く「此神は木の花さくや姫と申(し)て、富士(浅間神社の神と)一体也。無戸室(うつむろ)に入りて焼給(やけたま)ふちかひ(誓い)のみ中に、火火出見(ほほでみ)のみこと生れ給ひしより、室の八嶋と申す。また煙を読習(よみならわ)し侍(はべ)るもこの謂(いわれ)也。将(はた)、このしろという魚を禁ず。縁起の旨、世に伝ふ事も侍りし。》
《曾良随行日記》『廿九日 辰ノ上剋(午前7時過ぎ)マゝダ(間々田)ヲ出。
一 小山ヘ1里半、‥‥。
一 小田(小山)ヨリ飯塚ヘ1リ半。木沢ト云所ヨリ左ヘ切ル。
一 此間姿川越ル。飯塚ヨリ壬生ヘ1リ半。飯塚ノ宿ハヅレヨリ左ヘキレ、★①八島ヘ行(乾(西北)ノ方5町バカリ)。スグニ壬生ヘ出ル(‥)。‥
一 壬生ヨリ楡木ヘ2リ。ミブヨリ半道バカリ行テ、★②吉次ガ塚、右ノ方20間バカリ畠中ニ有。
一 にれ木ヨリ鹿沼へ1り半。
一 ‥。★③同晩、鹿沼(‥‥)ニ泊ル。(‥‥)』
〇室の八嶋(大神神社・下野惣社)到着
〇室の八嶋(大神神社・下野惣社)到着
↑「下野惣社(室の八嶋) 大神神社は、今から1800年前、大和の大三輪神社の分霊を奉祀し創立したと伝えられ、祭神は大物主命です。総社は、平安時代、国府の長官が下野国中の神々にお参りするために大神神社の地に神々を勧請し祀ったものです。また、この地は、けぶりたつ「室の八島」と呼ばれ、平安時代以来東国の歌枕として都まで聞こえた名所でした。幾多の歌人によって多くの歌が、残されています。
〇「煙たつ室のやしまにあらぬ身は こがれしことぞくやしかりける」 大江匡房
〇「いかでかは おもひありともしらすべき むろのやしまのけぶりならでは」 藤原実方
〇「くるる夜は 衛士のたく火をそれと見よ むろのやしまも宮こ(都)ならねば」 藤原定家
〇「ながぶればさびしくもあるか 煙たつ室の八島の雪の下もえ」 源 実朝
〇「東路の室の八島の秋のいろ それともわからぬ夕けぶりかな」連歌師・宗長
〇「糸遊(いとゆう)にむすびつきたる けぶりかな」松尾芭蕉 」「いとゆふ」は陽炎の意味の大和言葉らしい。その意味の漢語は本来「遊糸」。
〇「くるる夜は 衛士のたく火をそれと見よ むろのやしまも宮こ(都)ならねば」 藤原定家
〇「ながぶればさびしくもあるか 煙たつ室の八島の雪の下もえ」 源 実朝
〇「東路の室の八島の秋のいろ それともわからぬ夕けぶりかな」連歌師・宗長
〇「糸遊(いとゆう)にむすびつきたる けぶりかな」松尾芭蕉 」「いとゆふ」は陽炎の意味の大和言葉らしい。その意味の漢語は本来「遊糸」。
↑「芭蕉と室の八嶋 ‥‥昔、このあたりからは不思議な煙が立ちのぼっていたといわれ、「室の八嶋に立つけぶり」は京の歌人たちにしばしば歌われている」
↓「室の八島」入口の鳥居。
ここから箱庭のような八島巡りが始まる。ボクは巡りながら数えてみた。ちゃんと八島があった。島それぞれに名神が祀られている。
一の島
二の島三の島
以下、八の島まである。
↓拝殿境内へ
↓拝殿↓本殿
↓芭蕉句碑「糸遊に結びつきたるけぶりかな」
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